その昔、昭和50年代の初頭に、「さくら荘」という古風な名前のアパートが、高級住宅街である世田谷区松原の一角にありました。私が学生時代に住んでいたアパートなのですが、四国から出てきて最初に住んだ、川崎市多摩区の喬月荘(きょうげつそう)の次に引っ越した、やはり古い学生アパートです。またも昔話ですがしばしお付き合いください。
喬月荘は殆どプライバシーのない、合宿所みたいな学生アパートでしたが、ここは玄関も戸別になっていて、プライバシーは保たれていました。
古びてはいたものの、広い庭のある、周囲の邸宅にも少しも引けを取らない立派なお屋敷の、敷地の対角部分に立てられた、二階建て6戸のこじんまりしたアパートでした。私は一階の角部屋、隣と上の部屋は女子大生でしたが、期待したロマンスの機会は遂に訪れずに終わりました。
大家さんは年老いた御夫婦で、毎月家賃袋に家賃を入れて持って行く度に簡単な会話を交わすのですが、ご夫婦ともに穏やかな老後を送っておられるのが良くわかりました。
ところが私が入居している間に、ご主人が急に亡くなられてしまい、ご自宅でお葬式がありました。田舎出の学生で、そういうときのしきたりや作法も全く知らないことで臆病になってしまい、喪服は?お香典は?どうしようどうしようと思い悩んでいる内に、結局お焼香もできずにお葬式は終わってしまいました。今でもとても申し訳ない、恥ずかしい記憶で、当時の自分に出会えたならひっぱたいてやりたいです。
高級住宅街という事もあって、近くには著名人の住まいも多くあったようですが、中に当時日本のフィクサー的存在だとも言われていた人のお宅もありました。高く頑丈なコンクリート塀とその上に備えられた鉄条網で囲われ、入口には当時まだ珍しかった監視カメラがいくつも設置されていました。豪邸というよりも要塞と言った趣で、緊張感のある生活だなと感じたものです。
数十年ぶりに松原の近くに行くことがありましたので、当時のことを思い出して、最寄りの井の頭線、東松原駅から歩いてみました。当時は7~8分で歩けたと思いましたが、歳をとったからか、ゆっくり歩いて10分弱でした。
残念ながら当時の面影は全く残っておらず、広い敷地は分割されて、何軒かの今風の住宅に変わっていました。
大家さんのご家庭の事情は分かりませんが、以前の風格ある日本建築のお屋敷を広い敷地のまま相続することは、やはり今の相続制度ではなかなかできないのでしょうね。
周りも含めてどんどん敷地は細分化され、没個性の、今風だけれど時代を経ても味は出て来そうにはない街並みになってしまっていました。それでも庶民には手の届かない高価格住宅なんでしょうが。
せっかくここまで来たのだからと、今度は井の頭線方面に引返すのは止めて、反対方向の世田谷線の松原駅の方に歩いてみました。
ここは、北側に京王線、南側に小田急線、東側は井の頭線、西は世田谷線と4本の路線に囲まれていて、京王の明大前、小田急の梅が丘、世田谷線の松原もそれぞれ15~20分歩けば行ける、とても便利なところなのです。
一番乗る機会の少なそうな世田谷線を選び、三軒茶屋まで出たのですが、この電車と沿線の雰囲気はとても懐かしい感じがしました。電車も沿線の風景も当然新しくなってはいるのですが、ゴトゴトとゆっくり走る世田谷線の感じが同じだからですかね?
そしてこの時にもう一つ思い出したことがあります。私は当時ここに越してきて、生まれて初めて「アメリカンクラブハウスサンド」なるものを食べて、世の中にこんな旨いものがあるのかと衝撃を受けたのです。そしてクラブハウスサンドは今でも私の大好物です。近くにあったトップスというスーパー(ここも当時おしゃれな雰囲気でした)のそばの喫茶店でしたが、もう無くなってるんでしょうねえ。