シニアライダーの日常・R1200Rと共に

シニアライダーの日常と記憶、愛車R1200Rと行くツーリングの記録と四方山話。

父を送る

父が亡くなり、通夜・葬儀のため岡山に帰っています。明るい話ではありませんし、父への追悼文のつもりで書きますので、ちょっとなぁという方はこのまま閉じて下さい。






いずれ来る時であり、3ヶ月前に入院した時から覚悟はしておくように主治医に言われていましたので、そう動揺はしないと思っていたのですが、いざとなればやはり色々考えて眠れなくなり、斎場控室の布団の中でこれを書いています。

父は92歳、私が67歳になるまで生きた訳ですから、まあ大往生と言っていいのでしょう。

ただこれまでの父の人生は決して平坦なものではありませんでした。
父は16歳で北九州の旧制中学から長崎の学校に進学し、その夏爆心地近くの勤労動員先の工場で被曝しました。命からがら阿蘇の祖父の実家に逃げ帰り、九死に一生を得たのですが、その後もしばらくは原爆症で苦しんだそうです。本来は旧制中学5年修了17歳で行く学校なのですが、戦時対応で1年短縮の16歳で進学したことがアダになりました。
その後私が祖母に育てられたのもそれが理由ですし、父は自分の人生を大きくゆがめた戦争・原爆を恨んだと思うのですがそれについて多くを語りませんでした。

戦後も復学はできず、そのまま学校も中退したのですが、何事もなく卒業していれば、それなりのコースに乗れる学校でもあったようで、その場合は全く違う人生を歩んでいたのかも知れません。

ただ、父はその時既に原爆についてのある程度の知識を持っていたようで、アメリカが開発している新型爆弾は人体に大きな影響を与える可能性があると聞いた事をとっさに思い出し、出来るだけ早くここから遠ざかろうとして、一路阿蘇を目指したのだそうです。
父がその判断をしなければ恐らく生き延びる事はできず、当然私もこの世にいませんし、更に言えば戦争も何もなく、父が順調な人生を送ったとしても私はこの世にいないでしょう。

そう考えると複雑な思いがしますが、16歳という、今なら高々高校2年生の歳で受けた大きな試練を抱えて生き続けた父には感謝しかありません。月並みですが、お疲れ様、ゆっくり休んで下さい、という気持ちです。

もう夜が明けます。これから通夜・葬儀の打ち合わせをして父を送ります。

超個人的でセンシティブな内容になりましたが、悪しからず。

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