今から12年前の3月11日金曜日、午後2時46分に東日本大震災が発生しました。
当時私は東京でいたのですが、その時のことを忘れないためにも、その日の我が家の動きを書き出してみたいと思います。こういう記事を書く時、いつもなら昨年、一昨年のブログを引用したり貼り付けたりするのですが、今回はそれはせずに記憶をたどって書いてみます。(あとで記憶違いがないかの検証はしようと思いますが、、)
地震発生時、4人家族の我が家は、私が東京都品川区の会社で執務中、当時高校2年生の長男は千葉県船橋市の貸しスタジオでバンド仲間と練習中、妻と中学1年生の娘は自宅でいました。
最初の揺れが来たのは、午後の勤務が始まってしばらくしたところでした。突然大きな横揺れに見舞われ、座っていたにも関わらず前後左右に大きく揺さぶられ、デスクにしがみつかないと振り落とされるような激しい揺れでした。私は窓際の席(窓際族という訳ではなかった、、と思います。)でしたので、正直机ごと窓ガラスを突き破って落ちるんじゃないかとすら感じたのを憶えています。私は7階でしたからまだその程度でしたが、21階にあった研修室での揺れはもっと凄くて、生きた心地がしなかったみたいです。
その後広報部門で常時つけっぱなしにしているTVの情報から、震源地は東北で、現地では大変なことになっていそうでしたし、余震も連続して起きていたものの、震源地からは遠いということがわかり、その後一旦社内は平静を取り戻して、私も定例の会議に参加するような余裕も生まれていました。阪神淡路大震災後、建物の耐震工事も進んでいて、建物倒壊もそう多くはなさそうという第一報が多かったのも事実です。
ところが1時間もしないうちに、津波情報が続々と伝えられ始めて、楽観論は完全に吹き飛ばされました。広報部のTVの前に立ち尽くして皆言葉を失っていったことをよく覚えています。何か映画を見ているような、非現実的な感覚で、9.11テロの映像を見た時と同じでした。
そして首都圏でもかなりの被害が出ていることが判明してきて、交通機関のマヒも伝えられ始めると、人事部門としては本社社員の安全確保等も課題となってきました。
徒歩で帰れる社員には、安全を確認しつつの帰宅を指示し、あとは無理せずオフィスで宿泊するように指示しました。翌日が土曜日だったこともあって、私も含め多くの社員が無理には帰宅せず、オフィスで一夜を明かしましたが、1Fにある2軒のコンビニは、あっという間に店内が空っぽになりました。
その頃船橋の貸しスタジオで居た長男は、学年末テストも終わって春休みを待つばかりという開放的な期間を迎えたばかりで、授業も午前中で終わり、高校のバンド仲間との練習中でした。
重い機材等に囲まれた環境でしたが、機材が躍り上がるような揺れには至らず、割と平静に収まるのを待ち、店舗スタッフの誘導で表に出たそうです。街の様子もそんな緊迫感は無かったようですが、電車はすべて止まっていたので帰宅はできず、徒歩圏にあったバンド仲間の自宅に泊めてもらいました。その時点で妻には連絡があったそうですが、そのお宅は船橋の港からもそう遠くないとのことで、まだ津波がどこまで押し寄せるのかもはっきりわかりませんでしたので、正直それは不安でした。まあ船橋は東京湾でも最奥部ですし、結局被害もなく、長男は翌土曜日何事もなく帰宅しました。
妻と、中学生として初めての学年末試験を終えてのんびりしていた娘は、自宅で大きな揺れに見舞われたのですが、すぐに、怯えて逃げ回るクー、ロクという2匹の猫を捕まえてキャリーケースに押し込み、揺れがおさまるのを待って、クルマですぐ近くにある総合病院の広い駐車場に一時避難しました。
カーナビのTVで情報を得ていたそうですが、京葉工業地帯の一角にある石油備蓄施設で火災が発生したり、都内でも被害が出ていたりと、どんどん不安になっていったとの事で、それは無理ないと思いますが、石油備蓄施設(コスモ石油だったと思うのですが、、)の火災から、もしかしてガソリンが足りなくなるかもと連想して、その日のうちにガソリンを満タンにしておいてくれた(その時はまだパニックにもなっておらず、セルフですんなり入れられたそうです。)のはファインプレーでした。後々とても助かりました。
二人と二匹はその日のうちに帰宅し、翌日帰宅した私と息子を迎えてくれましたが、我が家ではその後停電も断水もなく、買い占めや供給不足でスーパー等の店頭から色々な商品が消えたり、水やガソリンがなくなったりの不便はありましたが、比較的平穏に乗り切れたのは幸いでした。
その後は関東圏でも福島第一原発からの放射線影響が騒がれたりして、通常に戻るには時間がかかりましたが、最悪の場合は近所に住む義父母と共に関西・中四国・九州あたりの親戚を頼ることすら考えていましたので、直接被害に遭われた方々には申し訳ありませんが、そうならずに済んで良かったと思っています。
地震被害・津波被害の怖さを目の当たりにしたのですが、時間の経過と共にその恐怖心も薄れてきていますので、再度思いを新たにしなければと思います。