このブログでは政治的な立場や信条に踏み込むつもりは無く、特定の政党や人物を評価する意図もありません。ただ、ここ数年民主主義という仕組みが抱えている弱い部分について考える場面が増えてきましたので、きちんとまとまった考えがある訳ではありませんが、感じていることを書いてみたいと思います。
民主主義は、誰でも政治に参加できる点が良いところだと言われます。しかし、全員が参加できるということは、別の面では危うさにもつながるのだろうと思い始めてもいます。新聞を読まず、ニュースも見ず、政治に関心を持たないまま過ごしている人たちにも、今ではスマホなどのツールが漏れ無く大量の情報を届けます。便利になったと言えばそれまでですが、それが本当に良いことなのかどうか、判断に迷います。
民主主義がうまく働かなくなった時の姿として、衆愚政治、寡頭政治、僭主政治という言葉があり、衆愚政治は大勢が気分で動いてしまう状態、寡頭政治は一部の人たちが物事を決めてしまう状態、僭主政治は強い指導者に力が集まる状態を指します。これらは別々のものでは無く、状況によって形を変えながら現れると言われています。
スマホは、これまで政治に関心が薄かった層にも情報を届けるようになりましたが、その情報が正確とは限りませんし、短い動画や強い言葉が目に入りやすく、考えるための材料が十分にそろっているとは言い難い面もあります。結果として、分かりやすい言葉を使う人ほど支持を集めやすくなり、衆愚政治に近づく危険があるように思います。
旧N党の立花氏が行ったやり方は、その一例として語られることもあり、スマホを通じて、政治に関心の薄い層に向けて分かりやすい言葉を投げかけ、既存の政治への不満を示すこうした方法は、民主主義が抱える弱い部分を突いたものとも考えられます。
海外でも似たような現象が見られ、アメリカではトランプの登場がその例です。短い言葉で支持を集めるやり方はSNSとの相性が良く、従来とは違う層を動かしたと言われていますし、日本でも参政党やれいわ新選組などが、動画やSNSを通じて支持を広げたとされています。いずれも、分かりやすく強い言葉で訴える点が特徴ですね。
ここで特定の個人・政党の名を上げるのは不適当かもしれませんが、決して彼らを否定することが趣旨の文章ではありませんし、支持・不支持を述べている積りもありません。
そして民主主義と独裁は、離れているようでいて、実はつながっている面があるようです。大勢が気分で動くようになると、強い言葉を使う指導者が支持を集めやすくなり、その指導者に力が集まることで、僭主政治に近付きます。歴史の例としてはヒットラーがよく挙げられ、選挙で選ばれた指導者が結果として独裁者としての力を持つようになった例として語られます。
太平洋戦争前の日本も、国の空気や情報の偏りが重なり、民主的な仕組みがうまく働かなくなっていったと説明されることがありますが、こうした流れは今の時代にも通じるところがあると思います。
情報が手軽に手に入るようになった一方で、考える時間はむしろ減っていて、情報が多いほど判断が正しくなる訳では無く、断片的な言葉が気持ちを揺らし、落ち着いた判断を難しくします。
寡頭政治の面も無視できません。政治や行政の仕組みは複雑で、専門的な知識が無いと理解が難しい部分が多く、結果として一部の人たちが物事を決める形になりがちです。これ自体が悪い訳ではありませんが、見えにくさが増すと、国民の信頼は揺らぎます。信頼が揺らげば、また強い言葉を使う指導者が支持を集めやすくなり、独裁に傾く可能性もあるでしょう。
民主主義は、実は我々が思っている以上に弱い仕組みなのかも知れません。衆愚政治、寡頭政治、僭主政治という言葉は、遠い世界の話では無く、今の社会にも当てはまる部分があるようですし、便利になった情報ツールが、民主主義を支える道具にもなれば、弱体化させる道具にもなる、そうした時代なんだなと感じます。