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鴻上尚史著「『空気』と『世間』」と、阿部謹也著「『世間』とは何か」

 

以前、さん付けと呼び捨てについて下記のような記事を書きましたが、鴻上尚史さんの「『空気』と『世間』」という本を読んで、なるほどと納得することが多かったので紹介します。敬称をつけるかどうかも、この「世間」で説明することができます。

 

 

 鴻上尚史という人は愛媛県出身の劇作家・演出家で、私の好きな「COOL JAPAN」というTV番組の司会を長年やっていることで親しみを持っていました。

 

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

「空気」と「世間」 (講談社現代新書)

  • 作者:鴻上尚史
  • 発売日: 2013/02/25
  • メディア: Kindle版
 

 

 日本に来た外国人が戸惑うことに、日本人の二面性があると言います。
まずは、電車等にパスポートや財布といった貴重品入りのバッグを置き忘れても、何事もなかったかのようにバッグが元の場所に残っていることで、日本人のモラルの高さに感激!というような肯定的な経験。一方で、同じ電車内の出来事でも、優先座席に座る若者がお年寄りを前にしても席を譲らず平然としている、という否定的な経験。彼らはこれに混乱してしまうのだそうです。

 

鴻上さんによれば、この二つのケースはどちらも「世間」と「社会」の違いで説明ができるという事なのです。
日本人は「世間」に住んでいて「社会」との関りは希薄だというところから話は始まります。日本人にとっての「世間」は、かつての村落共同体がその代表で、まず農耕の生命線である「水利」が決められ、一斉の田植え、収穫、台風等への全体での備え等、厳しい「世間の掟」が定められますが、それに従ってさえいれば経済的に守られます。しかしその掟に従わない場合「村八分」という掟が発動し、待っているのは餓死か追放か、です。経済的なセイフティー・ネットとして機能していた訳です。西洋で神の存在を意識して己を律するのと同様に、日本の「世間」は西洋の一神教に匹敵する強力な神だった、というのです。日本人は神の目は信じなくても、世間の目を気にして行動を慎んだのだと。なるほど納得できます。
これは現代の「会社」に引き継がれ、都市部での地域共同体は濃密につながる必要がなくなりました。社歌や誓いの言葉は、一神教の讃美歌であり聖書の言葉だということです。昭和以降も農村社会ではつながりがまだ強力でしたが、農作機械の発達や兼業農家の増加などで、各戸単位の作業割合が徐々に増えていきました。

 

最初の電車の例に戻ると、これらはどちらも「世間」の外、「社会」での出来事だったから、という事なのです。電車に放置されたバッグも、自分の前で立っている老人も自分の「世間」外の物であり人だから、気を使う対象ではないだけなのだと。
同じ電車でも、我先に車内に駆け込んで、友達の席まで確保して平然としているおばさんは、「世間」内の友人とその他「社会」の有象無象に対する対応を使い分けているだけで何ら悪気はなく、「世間」内では世話焼きで親切な有力者なのかも知れません。

 

敬称をつけること、呼び捨てにすることも「世間」の内では長幼の序などで厳格なルールがあり、そのルール外の「社会」の人は自動的に呼び捨て、ということになります。

 

そして「世間」がゆるやかに壊れ始めて、代わって「空気」が場を支配するようになってきましたが、「世間」と違って「空気」には強固なつながりやルールはありませんから、その時々で「空気を読む」ことを延々と続けて行かなくてはならないのが現状です。

 

鴻上さんは、この「世間」と「社会」という考え方を、阿部謹也という学者さんの本からも引用しています。
阿部さん曰く、明治維新以降、「世間」という考え方は江戸以来の旧習であるとされ、西洋から導入された「社会」を論じることはあっても「世間」は論じる対象ともされず、いずれ消え去るものだと思われていたそうです。しかし、西欧では「社会」と言う時は必ず個人が前提となり、個人は譲り渡すことのできない尊厳を持っていて、その個人が集まって社会を作るものだとされています。しかし「世間」の中で個人を持たないことを求められてきた日本人には、いまだに個人に尊厳があるということは十分に認められておらず、本当の「社会」は理解できていない。そもそも「世間」は個人の意思によって作られたり、個人の意思でその在り方が決まるような存在ではなかったから、ということですので、「世間」が壊れ始めたとはいえ、日本人が即「社会」の住人として生きられるようになる訳ではなさそうです。

 

「世間」とは何か (講談社現代新書)

「世間」とは何か (講談社現代新書)

  • 作者:阿部 謹也
  • 発売日: 1995/07/20
  • メディア: 新書
 

 

鴻上さんの著書は、日本語は、まず相手の位置と自分の位置=「世間」でのポジションを確認して、敬語の使い方が決まらないと使いにくい言語だ、という風に思わず膝を打つような話題が多く盛り込まれていて一気に読めましたし、阿部さんの方もやや硬いですが難解さはなく、明治期以降の文豪の「私」と「世間」・「社会」への向き合い方の解釈等はとても面白かったです。

 

 

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