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東葛地区の数字由来の地名について

 

私の住む千葉県の北西部、東葛地域には数字からなる地名が沢山あります。
越してきた当初は何気なく見過ごしていたのですが、地域のミニコミ誌か何かで、これはここが明治以降に開拓された土地であることに由来していることを知りました。その数字を含む地名は、東葛地区だけでなく北総台地一帯にまで広がっていて、その土地が開拓された順番に一から十三まであるのです。

 

以下、関東農政局のHP等から抜粋してまとめてみます。

明治のはじめ、江戸をはじめとする関東の諸国には、幕末からの混乱で職を失った武士や路頭に迷う庶民があふれ、政府にとってその対策が緊急の課題となっていました。そこで新たな農地を開拓することで彼らの救済と食糧増産を図ることに決定し、開拓の対象となったのが北総台地の牧(まき)でした。当時の日本では、江戸時代の新田開発を経て、条件の良い土地が既にほぼ開墾し尽されており、北総台地でも、谷の低地は谷津田として、台地の一部は畑地としてすでに開墾されていましたので残った広大な牧は必然的に条件の悪い土地でした。

 

ちなみにデジタル大辞泉によれば、「牧は《「馬城 (まき) 」の意。「城」は物を収めておく所》牛・馬などを放し飼いにする場所。牧場。まきば。」であり、この一帯には幕府直轄の小金牧や佐倉牧という広大な牧が拡がっていました。

 

開拓は明治2年、三井財閥系の開墾会社によって、牧周辺の農民の手を借りて北総台地の西側、小金牧の初富地区から始まりました。開拓順に並べると

初富(はつとみ) 鎌ケ谷市初富、松戸市初富飛地
二和(ふたわ)  船橋市二和東・二和西
三咲(みさき)  船橋市三咲・三咲町
豊四季(とよしき)柏市豊四季
五香(ごこう)  松戸市五香・五香西・五香南・五香六実
六実(むつみ)  松戸市六実
七栄(ななえ)  富里市七栄
八街(やちまた) 八街市
九美上(くみあげ)香取市九美上
十倉(とくら)  富里市十倉
十余一(とよいち)白井市十余一
十余二(とよふた)柏市十余二
十余三(とよみ) 成田市十余三

となります。

 

単純に数字を付けただけではなく、縁起の良い文字を組み合わせ、開墾の成功を祈ったことが良くわかります。これらの地名からは、開拓者たちが予想した開拓の困難と、それに打ち勝ちたいという熱い想いが伝わってくるようです。

 

しかし条件が悪い牧の開拓はやはり困難を極め、天災も追い打ちをかけたことで開拓者の離散・逃亡が相次ぎました。開拓者が次々に北総台地から去っていくなか、見捨てられた開墾地の多くは、旧開墾会社の社員や周辺の農村に住む地主たちの手に渡っていきました。彼らはこの地の開墾をあきらめず、新たな開拓者を雇い、また周辺の農村に住む次男、三男が独立し希望すれば土地を貸し出しました。もちろん、わずかに残った初期の開拓者の中にも、地道な開墾を続けた人々がいたようです。こうした努力により開墾は徐々に進んでいき、そして明治30年代の鉄道開通以降、埼玉や山梨から数多くの農民が移住してきました。彼らは、殆どが未経験者であった初期の入植者とは違って豊富な経験をもった人たちでしたから、それまでと比べるとはるかに効率的に開墾を進めていきます。そして初期からの人たちも彼らに習い開墾に励みました。開墾は急速に進み、以後、開拓地は農産物の一大生産地へと成長していくことになります。

 

我が家の周りは、千葉都民と言われる東京への通勤者(私もその一人でした)が住む新興住宅地と、従来からこの土地で農業を営む人たち(上の描写の通り)の家に分かれるのですが、この人たちの家がまた大きく立派なのです。この説明を読んでその理由がわかりましたが、ただ先祖伝来の地で安穏と暮らしていた訳ではないのですね。頭が下がります。

 

 

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