何気なくブログの閲覧をしていて、アマチュア無線について書いたブログにたどり着き、色々な事を思い出しました。
昔、「〇年の科学」(〇は1~6の数字です)という月刊の学習雑誌がありました。学研が発行していて、「〇年の学習」と姉妹誌でした。当時その付録が欲しくてずいぶんねだりましたが購読してもらえませんでした。
当時は月刊少年漫画、例えば「少年」「冒険王」などにも漏れなく付録が付いていましたが、「〇年の科学」の付録は実験模型という性格が強く、本当に科学の香りがして憧れていました。当時の日本は工業立国を目指して突き進んでいる時期で、科学への憧れや期待は社会全体にあったと思います。1963年に創刊されて、2010年の廃刊まで43年も続いていて、最盛期には科学、学習あわせて670万部もの発行部数を誇っていたそうです。
下の写真は1965年の「6年の科学」の付録、テスターセットです。この時代の小学生の学習雑誌にこのクオリティってすごくないですか?
私の子供たちも、息子は科学シリーズ、娘は学習シリーズを購読していましたが、これは会社の福利厚生の一環で、子供が小学校入学時に入学祝としてどちらか選べるのでした。結果、科学を購読した息子は理系に、学習を購読した娘は文系に進みました。勿論ほんのわずかの影響に過ぎないのでしょうが、数学、物理、化学が天敵レベルに苦手となった娘からは、私にも科学シリーズを与えてくれてたらこうはならなかったかも、、という何とも返しようのない訴えを受けました。
私は科学シリーズの購読は叶いませんでしたが、月間少年漫画は定期的に購読しており(父は漫画でも何でも活字の世界に触れることはいいことだという考えで、結構鷹揚に買い与えてくれたのですが、教員であり、漫画は堕落した娯楽という考えを持っていた祖母とはいつもぶつかっていました。)、その付録模型の製作から進んで、プラモデル作りが趣味となりました。この趣味は今も続いていて、今までの愛車のプラモデルが3つ手付かずのまま置いてあります。
科学シリーズで科学の面白さに目覚めた小学生が中高生になるころ、たいていは「ラジオの製作」という雑誌に進み、鉱石ラジオを作る少年に進化していったものでした。(鉱石ラジオくらいは小学生が作っていたかも知れません。)更に進むと、表題のアマチュア無線(当時はハムと言っていました)にたどりつき、自宅にアンテナを立てて無線機を設置し、「ハローCQCQ」という呼びかけで世界とつながる、という世界が待っていました。
私も高校入学当時はまだ理系アレルギーもなく、そういう興味も持続していましたので、「電気部」(時代を感じる名前ですね。今は何と言うんだろう?)という、実態としてはアマチュア無線の資格取得と実技を習得する部に入部しました。その後すぐ物理・化学アレルギーを発症し(娘はやはり私からの遺伝の確率が高いです。)、更に帰宅部のメンバーとのつき合いに比重がかかって脱落したのですが、いまでも科学や技術全般への興味・関心は多分人並み以上にあります。この時脱落していなければ、理系アレルギーだけではなく、世界と交信することで、語学アレルギーも克服できていたかも知れませんね。完全な「たら・れば」話ですが。
結果として理系少年の進化の過程からはこぼれ落ちたのですが、初期の頃は上記の「ラジオの製作」等で刺激を受けたのか、ラジオのアンテナを自宅に張ったりしていました。四国の田舎ではAMラジオで東京のキー局(ニッポン放送や文化放送といった深夜番組の王道番組を放送していた局)の電波を拾うのは中々大変だったんです。そこで電器屋に行ってニクロム線と碍子(ガイシ)を買ってきて、家の軒下に這わせてアンテナを作ったりしたのです。それで感度が上がったのかどうかは記憶にないのですが、結構大変な思いをして設置したことだけは憶えています。
ちょっと前まではトラックドライバーや、バイクでもハーレーのツーリングファミリーやホンダのゴールドウィングに乗っている人たちには、無線を装備している人が多かったですね。制度がよくわかっていないのですが、パーソナル無線やアマチュア無線という区分があって、免許不要のタイプもあるみたいです。ただこの利用者には違法改造、違法利用者が多く、確かにクルマのラジオにトラック無線が突然混線してきたりしていました。
トラックドライバーに無線を普及させたのは、今は亡き菅原文太さん主演の映画「トラック野郎」シリーズだったそうです。確かに主人公の星桃次郎が無線で仲間と連絡を取り合いながら、トラックをぶっ飛ばしてマドンナの救出に向かう、という場面はよく憶えています。
しかし今では、スマホが普及したことと、バイクの場合はブルートゥースのインカムの性能があがったことで、トラックもバイクも利用者は激減しているようです。既に過去の技術になってしまったんですかねえ。