「ホッカイダー1998」という漫画を読みました。作者が20代から20年以上北海道にはまり続けている様子がほのぼのした漫画で綴られています。ここまではまってしまうことも凄いですが、私にも北海道への憧れはやはりあります。
私たちの少し前、60年代の夏の北海道は、リュックを背負った若い旅行者たちで溢れ、彼らはカニ族と呼ばれていました。当時は横長リュック全盛で、横幅が邪魔で列車の通路等狭いところでは横歩きしたから、また横長のリュックの形がカニに似ていたからそう呼ばれたらしいですが、下の様に左右に大きなポケットが付いています。キスリング型ザックというそうで、私が子供の頃は遠足用の子供のリュックもこんな形でした。確かにこの色この形なら、茹でた毛蟹に見えますね。
60年代のカニ族は、旅行の足としては当時国鉄が発行していた周遊券を使い、国鉄が走っていないところはヒッチハイク等で安くあげる。宿は当時全盛のユースホステルに泊れれば上等で、駅のベンチでゴロ寝したり、公園で寝たりする貧乏旅行が基本だったようです。むしろ貧乏を誇るようなところがあり、行先もメジャーな観光地ではなく僻地志向、私なんかの世代にはギリギリ理解できますかね。
私の大学時代は70年代後半ですからもうちょっと贅沢になっていて、大学4年の夏休みに友人のクルマで3週間北海道を回りました。とはいえお父さんが乗り換えで下取りに出そうとしていたのを友人が貰い受けた古い20カローラでしたから、雰囲気は十分学生の貧乏旅行でした。
勿論こんなピカピカのクルマではなかったですが、クルマで北海道を一周できるというだけでもうワクワクでした。初めての北海道でしたし。
当時東北自動車道はまだ大宮から仙台までしか開通しておらず、都内から大宮(今の岩槻インターかな?)までがまず大渋滞でした。真夏(7月の終わり)で当然エアコンもありませんから、相当暑かったはずなのですが不思議とその記憶はありません。大宮から東北道で仙台までは約4時間、そこから青森までの距離はほぼ同じくらいだと思うのですが、国道4号線をひたすら北上してフェリーに乗るまで8時間以上掛かりました。そしてフェリーが函館に着いた時には夜が明けて次の日。そこから反時計回りに北海道の旅が始まり、2週間の予定だったのに予定外の礼文島に渡ったりして、金が尽きるまでの3週間道内をウロウロしていました。この頃もユースホステルがまだ健在で、ペアレントと呼ばれる経営者の人を中心に行われるミーティング等にもおずおずと参加していました。まだ若者は貧乏旅行!という価値観が残っていて、クルマで旅している我々はブルジョア扱いされました。全くそんなことないんですがね。
そして80年代になると、ミツバチ族というのが現れます。バイクでブンブン北海道に集まって来るから、というのがネーミングの由来で、鉄道・バス・ヒッチハイクから格段に行動の自由度は増したと思います。私はこの頃もうバイクを降りていましたので知識としてしか知りませんが、お盆にはフェリーのキャンセル待ちに数日前からテントを張るような猛者もいたのだとか。
その後独身時代は行く機会がなく、結婚後の家族旅行で2回、バイクにリターンした後、ツーリングで2回訪問しましたが、行く度にまた行きたいと思わせるところが北海道です。
しかし仕事上では結構行っていて、一番思い出に残っているのは、まだ20代の頃、上司と二人で札幌に出張した時の事です。商品展示会か何かが週末にあり、それに合わせて現地での商談をセットして行ったのですが、商談後すすきののマンモスキャバレーに上司と繰り出しました(連れられて行っただけですが)。その席で、近いうちに札幌にも支店を出そうかと思っているというような話を上司がしたところ、席についてくれた女の子たちが俄然喰いついてきて、翌日昼間(土曜日で休みでした)の観光にまで同行してくれることになりました。支店開設となれば上得意になってくれるかも、とでも思ったみたいですが、結局支店は出来ず、その娘たちには悪いことをしました。
ちょっと余談になりますが、その後転職し定年まで勤めた会社では人事部に配属になり、その会社では人事部の労務担当が社員の弔事には対応することになっていましたので、それこそ日本全国のお葬式に参列し、北海道にも随分行きました。親兄弟、子供までは本社人事部からの参列という規定でしたから相当な件数となり、社内では私程喪服を使っている奴はいなかったと思います。当時TVでヒットした、「冠婚葬祭部長」(今は亡き萩原健一が主演)に自分をなぞらえたりしていました。(慶事は殆ど無いのですが)