シニアライダーの日常・R1200Rと共に

シニアライダーの日常と記憶、愛車R1200Rと行くツーリングの記録と四方山話。

アルバイトの記憶

 

春休みということで、この期間にアルバイトデビューした若者も多いと思いますが、私の最初のアルバイトの記憶は、高校三年の夏休み、四国の地元にあった玉ねぎの冷蔵倉庫でのアルバイトです。
真面目な同級生たちは夏休み前に部活も引退し、大学受験の最後の追い込み体制に入っていたのですが、私は他校の就職組の友人たちに交じり、この夏計画していたキャンプの資金を貯めるためのアルバイトをしました。勿論これだけが理由ではありませんが、大学受験では完全に落ちこぼれて、浪人する羽目に追い込まれました。しかし、このあとのキャンプも含めて、この高校三年の夏が今でも一番記憶に残っています。

 

アルバイト自体は完全なブラック環境で、勤務時間もいい加減、休憩も繁閑によってあったりなかったり、最後のアルバイト代精算の時も時給が当初の話と違うなど、あり得ない対応でした。ただ地元の個人企業でしたので、中学時代の気心の知れた仲間ばかり6~7人が雇用されており、まるで部活の夏合宿みたいな雰囲気で、作業自体は全く苦にならず楽しかったです。今から考えるとかなり悪徳な経営者の思うつぼだったのでしょうが、肉体を酷使することがむしろ快感だったような記憶があります。
また毎日の作業は夕方早い時間に終わりましたので、全員その足でバイクに分乗して、近くの海に泳ぎに行き、日暮れまで女の子をナンパしたり(しようとしてできなかったような気もしますが、ともあれ成果は全くありませんでした)して、それもとても楽しかったです。

 

その後何とか大学に入り上京してから初めてやったのが、駅前レストランでのウェイターです。南武線と田園都市線が交差する、武蔵溝の口駅前にあったレストランで、和洋中揃えたかつてのデパートの大食堂みたいな店でした。この店に決めたのは、賄い付きと言うことに惹かれたからで、実際に、和食、洋食、中華のそれぞれの職人さんコックさんたちが交代で作ってくれる賄いはとても美味しかったです。
田舎から出てきたばかりの、ぽっと出の若者でしたが、何故か支配人たちにはかわいがってもらい、自宅麻雀とかによく誘ってもらいました。高校時代勉強もせずに覚えた麻雀がこんなところで役に立ちました。

 

当時の田園都市線は二子玉川から長津田までしか通じておらず、今のようなハイソな雰囲気の路線でもありませんでした。交差する南武線も、典型的な首都圏ローカル路線でしたから、溝の口駅前も鄙びた郊外の駅前広場、という趣でした。
田園都市線が急速に発展するのは、渋谷から二子玉川までの新玉川線(現在はこの区間も田園都市線に編入)が開通し、田園都市線と直通運転を始めた1970年代終わりになってからだと思います。私はちょうどこの頃に大学を卒業して韓国に4年間駐在しましたから、4年後東京に戻ってきた時には相当様変わりしていて驚きました。もっとも学生時代の私の活動範囲は小田急の登戸周辺から始まって(アルバイトはこの当時です)東京の西部が中心でしたが、社会人になってからは東京東部に移っていましたから、その変化を肌で感じた訳ではありませんでした。

  

その後、長期でやったアルバイトは、下北沢にあったパチンコホールでのホール係です。今から考えると某人気女優さんの実家(当時彼女はまだ幼児)だったようで、お祖父さん、お父さんたちが家族で経営にあたっていました。社会人になってからは全く足が遠のきましたが、大学時代は毎日のようにパチンコをやっていて、パチンコホールでのアルバイトというものに興味を持って応募したのですが、基本的には普通のアルバイトと変わりません。ただやはり客層は上品とは言えませんので、多少身の危険を感じるような場面もありました。パチンコ店経営は韓国・朝鮮系の人が多いですが、ここの経営者は日本人で、至極まっとうに我々にも接してくれ、ちゃんと雇用管理もしてもらって、結局ここが大学時代一番長続きしたアルバイトでした。

 

あとは短期のアルバイトを色々やりましたが、中でも印象的なのは露天商でのアルバイトです。いわゆるテキヤ(的屋)で、関東一円で開かれる縁日・祭りに合わせて移動していくのですが、元締めは関東北部に住んでいて、ここに住み込みで働く、常雇いの人たちのサポートで学生バイトが動員されるわけです。他大に通う友人が住む学生寮に代々求人が来ており、私も誘われて単発で行くようになりました。
学生寮にテキヤからのバイト依頼が来るというのも今から考えると大変な話ですが、当時は大学によっては学生運動の名残がまだ色濃く残る時代でもあり、この寮は学生が自治権を勝ち取っていて大学側は運営に口出しできないという、とても面白い寮でした。他大生も平気で寝泊まりしており、私も何日も転がり込んだりしていました。
色々な縁日の中では新宿花園神社のお酉様が一番記憶に残っています。時間帯によってどんどん客層が変わり、最後は歌舞伎町で働く人たちが帰宅時にお出ましとなって、それで締めとなるのですが、土地柄やはりヤクザな一面を垣間見ることも多々あり、スリリングでしたね。実入りはかなりありましたし、おいしいアルバイトではありました。

 

最初のウエイター以外、世間一般とはちょっと違ったアルバイトが多かったですが、社会に出てからも、職業とか地位とかであまり人を判断しないようになったのは、このおかげかなと今でも思っています。 

 

 

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