父の死去により、予定していたブログの順序が変わってしまいましたが、無事葬儀も終えて千葉に帰って来ましたので、日常生活に戻りたいと思います。父の供養には我々が何事もない平穏な日常を送るのが一番だと思いますので。
最近娘と話していて、常に金欠でピーピー言っている割にはお金を稼ぐという事について無頓着というか関心が薄いことに気付きました。
勿論あれが欲しいこれが欲しいという欲求は人並み以上にあって、お金が欲しいとは思っているみたいですが、積極的に稼ぎに行こうとか、そのためにはどうしたら良いのか、という風には結びつかないようです。
未だに自分の基本給や各種手当、控除項目等について正確にはわかっていないみたいですし、賞与の支給日すらあやふやなのには驚きました。当然評価の仕組みや昇進・昇給のルールもわかっているとは思えません。要は給与や賞与は勝ち取るものではなく与えられるものという意識が強いのです。
そういえば今は家を出た息子の場合はこれが更に顕著で、淡白というか何か世捨て人みたいな感じがしたこともありました。草食系というやつですかね。
大学時代の彼はサークルやそれ以外でもバンドを幾つか掛け持ちしており、金はかかったはずなのですが、基本親からもらう小遣い(大学生になっても小遣いを渡していたことに賛否のご意見はあると思いますが、志望校の中で一番近く、自宅通学が楽にできるところに決まったのでやや甘くなってしまったことは確かです。)で賄う、という姿勢でした。その代わり支出は徹底して押さえており、小遣い以外に貰う昼食代をセーブするために、授業の間隔があいた時には、ウチに昼食を食べに帰ってきたりしていました。大学は近かったのですがそれでも往復すれば優に1時間以上はかかりますから、私なんかからするとそこまで倹約生活するくらいなら何でバイトして稼がないんだろうと不思議でしたが、彼は物欲自体もあまり無く、バイトで時間を取られるくらいなら楽器の練習に充てたいと言っていて、それ自体には何だか説得力がありました。
こういった状況はウチの子供たちだけではなく、近年になって入社してきた新入社員たちの多くにも共通していました。
その理由として大きなものは、やはり教育なんでしょうね。日本の教育界には、お金を稼ぐということを教える風土・仕組みはなく、未だに「武士は食わねど高楊枝」、「お金は不浄なもの」という考えが根強く残っているような気がします。学校の先生からは、高尚な人間は金勘定などしないものだ、一生懸命世のために働けば自然と報酬は付いてくる、といった空気を感じますし、生徒・学生の進路についても、士農工商的な職業の順番付けがあることを感じます。米国などでは株や投資についての授業があるそうですが、それが個人資産に占める投資の割合となって顕著に表れています。ある統計によれば、日本では投資が10%強しかないのに対して、欧州では30%強、米国に至っては50%強もあるのだそうです。
そして我々親世代もやはり同様な、むしろ今よりもずっと保守的な教育を受けてきていますから、子供に金の話なんかするもんじゃないと思っているところもあり、子供から家計についての質問をされても「子供がそんなこと考えなくていい。今はしっかり勉強してればいい。」みたいな返答しかして来ませんでした。学校だけではなく親である私の教育も欠如していましたね。
小さい時からちゃんとお金や投資の重要性とそのリスクについて教わっていないから、稼ぐことに無関心な層ができる一方で、稼ぐためなら手段を選ばない層も生まれてきます。拝金主義的な層はいつの時代にも存在していますが、、。
話は変わりますが、年末調整という制度も、サラリーマンにとっては便利で親切なものですが、一方では税の使われ方に無関心になり、従順な羊を生み出していると思います。私自身長年サラリーマンをやっていて、ある時から確定申告をするようになり俄然税や社会保険について関心を持つようになりました。もし企業に年末調整義務がなく源泉徴収だけで終了となっていれば、サラリーマンの節税意識は格段に高まり、政府への批判的な視線も強まります。これまでのような単一政党(自民党)による長期安定政権は維持できないのが普通になるかも知れません。