以前「コーチ・カーター」という映画を観て、そのテーマが日本の学生スポーツにも通じる問題点だと感じたのですが、その時某大学のアメリカンフットボール部が世間を騒がせた事件の事を思い出しました。
相手選手に致命的な怪我を負わせるかもしれない危険行為を指示された選手がそれを実行してしまい、大学のその後の対応とあわせて大きな社会問題ともなりました。
その後事件も風化して忘れていたのですが、ある程度時間が経ってから今度は直接指示を出したとされるコーチ(加害者側)が大学を訴えたという事が記事になっていて、その時にまた当時の記憶を呼び起こされました。
まず最初にこの事件を知った時、ものすごく驚いたというよりは、ああ名門と言われる運動部であれば起こりそうな事件だなあというのが率直な感想でした。周囲にもそんな反応は多かったと思います。
それにしても、若いとはいえ20歳を過ぎた大人の選手が、場合によっては相手の選手生命さえ奪ってしまうかも知れないような危険行為を、逆らえない権力による強制だとしてもその場で実行してしまう事はとても異常な事だと思うのですが、それを起こりそうな事件だと思ってしまうことがそもそもおかしいです。
勿論私は当事者である選手を責める積りはなく、そういう体質のことを言っているだけで、更には選手よりももっと大人の、しかも社会経験のあるコーチがそれを指示してしまう事への恐怖感、そして今度は自分も被害者だとしてそれを訴えることへの違和感、色々感じた事件でした。
渦中の選手は有望選手だったそうですが、何故NO!と言えない選手になってしまうんでしょう?多分自身も有力選手だったであろうコーチは何故そうなってしまったのでしょう?
私は一時期社会人野球チームの運営に関わったことがあるのですが、主力となる選手の多くは野球以外でも才能を発揮できる奴でした。考えることを放棄して上からの指示に従うだけの選手ではそうはなれなかったような気がしますが、監督の指示には従って当然という空気があったのも事実です。
それは指導者と教え子という師弟関係が影響しているのでしょうか?何にでも「〇〇道」と名をつけ師弟関係を重視することは、時には日本ならではの美徳ともなり、人格形成の助けになることもあるのは認めますが、師の側にその資質がない人が立った場合は不幸が始まると思います。
名選手即ち名監督ならずとはよく言ったものですが、テクニカルスキルはあってもヒューマンスキルやコンセプチュアルスキルがない人は確かに存在します。
そしてそれはスポーツだけではなく、職人の世界でも、芸の世界でも良く見る光景ではないでしょうか?
一流の職人や、一流の芸の達人は、むしろヒューマンスキルやコンセプチュアルスキルに欠ける人の方が、天才肌とか職人気質みたいな表現でもてはやされるような気もしますし、それに喰らいついて行くような弟子でないと大成しない世界だと、周囲も認めている感じです。
日本の伝統工芸を長く守り続けている、といった形でよく紹介される職人さんの世界について言えば、作業環境を含めた労働条件の悪さも目につき、暗い、汚い、きつい、暑い、寒い、危険、と若者にそっぽを向かれる要素をもれなく備えていることも多くて、失礼ながら後継者不足もわかる気がします。
その点ではスポーツの世界は一足先に近代的なトレーニング方法へと脱皮していて、私たちが部活で強制された、練習中は水飲み禁止、とか、やみくもにうさぎ跳び、というようなものは姿を消しています。
ただ、作業環境の改善には多大な投資が必要で、どうしても採算に乗らないならそれは無理な相談となります。伝統工芸を守るなら、産業遺産的な扱いで補助金の対象にするとか、公的資金の導入も検討は必要でしょうが、その場合も単なるゾンビ企業の存続とならないように経営の近代化という条件は付けるべきだと思います。
伝統芸能ではありませんが、町工場が集積したあるエリアで、若い経営者たちが共同の管理機能(総務・経理・営業等)を立ち上げて、経営の効率化をはかっているというニュースを見たことがあるのですが、そういった工夫も必要なのではないでしょうか?