会津若松、猪苗代の旅に行って来ました。
まず会津若松では鶴ヶ城(若松城)を見学。維新戦争での籠城戦でも最後まで落ちなかった城として有名ですが、戦いでの損傷は大きく、開城後しばらく放置された後、取り壊されました。現在の天守閣は第二次大戦後再建され博物館として開放されています。赤瓦が映えるきれいな外観のお城ですし、内部の陳列も充実していて、会津若松市としての力の入れようが良くわかります。
明治維新当時、会津藩は逆賊でしたし、旧時代の城郭に莫大な費用をかけてまで修復するという機運は無かったのでしょうね。廃仏毀釈ということも行われましたし、文化大革命時代の中国と似たような雰囲気だったのではないかと想像します。
そこから、白虎隊自刃の場として知られる飯盛山に向かいました。
当時の会津藩の軍制はフランス式に大改革がなされ、東西南北の四方を守る方角の守護神(神獣)の名を取って、朱雀(すざく)隊:正規軍の主力(18~35歳)・青龍(せいりゅう)隊:朱雀隊に次ぐ正規軍の中核(36~49歳)・白虎(びゃっこ)隊:藩主の親衛隊及び予備隊(16~17歳)・玄武(げんぶ)隊:予備隊(50歳以上)、という構成だったようです。やはり白虎隊は少年兵ばかりの部隊だったんですね。
山上の自刃の地からは鶴ヶ城が彼方に望めましたが、この遠さでは少年兵たちが城が炎上していると誤認(実際は周囲の武家屋敷が燃えていただけ)してしまっても仕方ないなと思いました。また、ガイドさんの説明によれば、この時指揮官たる大人は食料調達等の理由で居合わせておらず、もし彼らがその場に居たなら、城は内部から火をつけられない限り、そう簡単に炎上はしないことを諫めることもでき、集団自決という事態にはならなかったのではないかと言われているのだそうです。
途中、やはりこの飯盛山にある会津さざえ堂にも立ち寄りました。この外観は写真等でも見たことがありましたが、白虎隊自刃の地にあったことは初めて知りました。
そして、さざえ堂とはこのお堂を指す固有名詞だと思っていたのですが、実はそうではないようです。それは江戸時代後期の東北から関東地方にかけて見られた建築様式の仏堂を表す一般名詞であり、堂内は螺旋構造の回廊となっていて、順路に沿って三十三観音や百観音などが配置されて、堂内を進むだけで巡礼が叶うような構造です。本来は三匝堂(さんそうどう)と言うのですが、螺旋構造や外観が巻貝のサザエに似ていることから、通称で「栄螺堂」や「サザエ堂」などと呼ばれるのだそうです。
ただ、他にさざえ堂と呼ばれる三匝堂はあっても、この会津さざえ堂のような二重らせん構造の斜路をもつ特異な建物は他になく、国の重要文化財にも指定されています。
その他にも、会津地方の郷土玩具である、赤い牛に似せた張子「赤べこ」の彩色体験などをやってこの日は終了しました。赤べこは子どもの魔避けとして知られ、赤には魔避けの効果があるとされます。また体の黒い斑点は天然痘などの病を表し、それをこの赤牛が引き受けてくれることで、病にかかっても重くならないように、子どもに赤べこを贈る風習があるのだそうです。
翌日は猪苗代町で野口英世の記念館等を見学して帰ってきたのですが、両日とも冷たい雨が降ってかなり寒く、さすが会津の冬は早いなあと実感した2日間でした。