文爺さんの日常・BMW R1200Rと共に

御隠居の日常と、愛車BMW R1200Rとの時間。

1970年代末から80年代初め、韓国での暮らし<前編>

昔20代の半ばの4年間、韓国で暮らしていました。社会に出て初めての職場が韓国というのも中々面白い経験でした。

今話題になっている、嫌韓だの親韓だのという話ではありませんのであしからず。

新卒で入社した会社で、入社当日の4月1日付で韓国子会社出向を命じられ、韓国駐在から私の社会人生活は始まりました。まさか4月1日即出向とは思っていませんでした。3月中から研修名目で出社していて、その間に発令されましたので、時間的に多少の余裕はあったものの、海外駐在はてっきりもっと先の話だと思っていました。
当日は同じ地区の別会社配属の同期と二人だけで現地に向かいましたが、まあ大丈夫なように手配はしとくから行ってこい、という扱いです。

 

当時は大阪の国際空港だった伊丹空港から、これも当時はソウルの国際空港だった金浦空港まで。ここまでは内定時の4年生冬に現地会社の視察旅行に行っていましたのでそんなに問題もなかったですが、当時韓国語の「カ」の字も知らない同期と私二人、そこから先は不安でいっぱいです。空港に現地社員が迎えに来ているからということで、入国審査、税関検査(当時結構厳しくて、トランクの中洗いざらい見られました)をカタコトの英語で済ませて外に出ると、大勢の出迎えの人でごった返していて、そこからすでに軽いパニックです。
下は現在のホーチミン タンソンニャット空港の風景ですが、当時のソウル金浦空港も正にこんな感じでした。

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出典:https://dailyportalz.jp/kiji/161019197848 デイリーポータルZネルソン水嶋さんのブログより



上の写真のように、ごった返した出迎えの人達の中には、到着者の名前などを手描きしたボードを持っている人が多く、その中で我々を出迎えてくれる人を見つけるのにまず一苦労しました。
ようやく見つけた出迎えは、年齢20歳ほどの韓国人男性。日本語は全くできず、英語もほとんどわからないということで、コミュニケーションはほぼ取れないまま、我々はただ彼についていくだけでした。
とは言え空港からソウル駅に向かい、そこから特急列車で3時間以上かかりましたので、その間食べるものも食べられず、トイレはどうしたんだか、とにかく同期2人でひそひそと話をするのみで、苦行の末、夜遅くにようやく現地に到着しました。
後日なんとか韓国語でのコミュニケーションが取れるようになってから出迎えの彼に聞いてみると、彼もお腹は空くしのどは乾くし、それをどう伝えればいいのかわからず、ただひたすら我慢でとても辛かったんだそうです。そうだよねえとお互い大笑いでしたが、彼を迎えによこした責任者の人にはチクチクとあとで文句を言い続けました。(もちろん文句言える間柄になってからですが、、)

その頃の韓国はまだまだ発展途上で軽工業が主体、重工業への転換を急ぎたいという状況でした。服飾小物の製造メーカーだった就職先は、典型的な労働集約型企業で、人件費が高騰する日本を脱出し、安価で良質な労働力の確保先として韓国に進出していました。当時韓国に従業員300人規模(だったと思うのですが)の生産工場を2つ有していて、私はその内の一つに出向となったわけです。
外資導入のための輸出自由地域というものの中にあり、隣はドイツ系の家具工場、向かいは紡績工場という具合でしたが、敷地にはまだまだ空きがあり、盛況というよりゆったりした雰囲気でした。韓国国内には製品を販売せず、100%輸出することを条件に免税されており、現地への技術移転と外貨獲得、雇用創出が主な役割だったんだと思います。

住居は輸出自由地域に勤務する駐在員用に外国人アパートというのが用意されており、同期と二人でルームシェアしていました。とは言え欧米規格の広い2LDKで賄いの家政婦さんもおり、通勤も当初は慣れないだろうからということで、現地責任者の常務のクルマに同乗させてもらっていました。朝駐車場に降りていくと、黒塗りのドイツ車を専任の運転手さんが毛ばたきで払いながら待っている、という今から考えても20代前半の若造には過ぎた待遇でした。

 

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外国人アパート 一棟に各階2戸の4戸がゆったり入ってました

 長くなりますので、現地での生活等は後編に続きます。

 

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