前回の記事で、自分のブログを随筆風にしていきたいと書きましたが、考えてみるとブログのジャンルに、エッセイブログというのがありますね?
随筆とエッセイって同じでいいんでしょうか?それなら私の目指すところはエッセイブログ、ということになります。
ということで、随筆、エッセイをそれぞれ調べてみました。
まずは随筆です。
私は丸谷才一や山口瞳、内田百閒等が好きだと書きましたが、そもそも日本の随筆の始まりは、清少納言の「枕草子」で、鴨長明の「方丈記」、吉田兼好の「徒然草」と共に日本三大随筆と言われています。
どれもどこかで一度は目にした作品で、なるほどここから随筆が始まったのかと納得できます。
文学における一形式で、筆者の体験や読書などから得た知識をもとに、それに対する感想・思索・思想をまとめた散文である。随想(ずいそう)、エッセイ、エッセー(仏: essai[1], 英: essay[1])などともいう。
となっています。同じものと言っていますね。
ところが、世界大百科事典によると
文芸ジャンルの一つであるが,その内容や表現様式は多様である。心の赴くにまかせて,なにくれとなく筆録されたものであり,文章はおおむね断片的かつ短文で,全体の組織構成,順序次第にはとらわれず,自分の見聞や身辺雑事,感懐や体験をつづる。広く世間に読者を期待することもなく,せいぜい親子・友人間などせまい範囲に読まれることは考えられていた。ヨーロッパにおけるエッセーと同じように近代では考えられているが,一部の随筆は似ているものの本質的には異なると考えるべきである。
となっていて、こちらでは同じものではないと言っています。
ではエッセイの方はどうでしょう?
「エッセイ」と検索してみると、Wikipediaでは「随筆」のページが表示されました。「エッセー」と「エッセイ」はこの項目に転送されていますと、、。
しかし世界大百科事典ではこちらも若干ニュアンスが違い
日本においてはヨーロッパの「エッセイ」の概念が入る前までは、中国の「随筆」の概念が支配的であった。つまり、「雑記、筆録、筆記、筆談、日記」などの広い意味で用いられ、体系的でない、筆の向くままの博学的な様相を呈する「随筆」であった。明治時代に「エッセイ」の概念の受容とともに「随筆」の概念が「エッセイ」に近づいた。その後エッセイに関するさまざまな論争を経て、現在の「個人的日常生活のなかで感じた、体系的ではない芸術美、意見などを表現する方法」としての「エッセイ=随筆」の意味が確立したといえる。
となっています。Wikipediaは同じものと割り切っていて、世界大百科事典の方は、そもそもの成り立ち含め違うものだったが、徐々に近づき同じものと認識されるようになった、ということでしょうか。
続けて随筆、エッセイ等入力して検索していると、「暮らしの手帖」の編集長をしていた松浦弥太郎さんの「日々の100」という随筆(エッセイ?)に行きつきました。
松浦弥太郎さんは以前から知ってはいたものの、その知的でハイセンスな立ち位置が私には縁遠くて敬遠していたのですが、この機会にKindleで購入して読んでみました。
それは、「岩本素白の随筆」という章にあり、
随筆 とは、 本当に あっ た 出来事 の 見聞 や 感想 を 自由 に 描い た もの。 エッセイ とは、 出来事 の 描写 では なく、 書き手 の パーソナル な 心 の 様子 を 描い た もの、 告白 的 な もの で ある という こと だ。 随筆 と エッセイ は 同じ もの では なく、 まったく 別 の 文学 だ という こと、 そして 随筆 の 真髄 が 何 かを、 岩 本 素 白 から 僕 は 学ん だ。
松浦弥太郎. 日々の100 (集英社文庫) (Kindle の位置No.1269-1272). 株式会社 集英社. Kindle 版.
となっています。
岩本素白という人は、明治以降最高の古典的随筆家とも言われる国文学者だそうですが、随筆とエッセイは全く違うものだというのが結論で、以前よりそれに関して考え続けていた松浦さんは、目の前が一気に晴れ渡るような思いをしたそうです。
現実には読む側も書く側も、そこまで随筆だエッセイだと差を意識するということは少ないでしょうし、その必要もないとは思いますが、私のブログをあえて分類すれば、告白的でなく出来事の見聞や感想が多いということで、やはり随筆風ということになるのでしょうか。