先日ネットで久しぶりに「見出し人間」という単語を目にしました。それだけですっと思い出せるのは人間が古い証拠なのですが、その昔吉田拓郎が歌った「ひらひら」という歌に出てくる単語なのです。
これとは別に、EXILE系(?)のGENERATIONSというグループが、カタカナの「ヒラヒラ」という歌を歌っているらしいですから、今はこちらをイメージする方のほうが圧倒的に多いんでしょうね。
吉田拓郎がひらがな版の「ひらひら」を最初に歌ったのは、1973年のライブですから、もう48年も前のことになります。そこには、「喫茶店に行けば今日もまた見出し人間の群れが押し合いへしあい、、、ラッシュアワーをごらんよ今日もまた見出し人間の群れが押し合いへしあい、、、」という具合に「見出し人間」が登場します。
説明なしでも大体察しが付くと思いますが、喫茶店に置かれた週刊誌や新聞(当時の喫茶店にはほぼ常備されていました)、電車の中吊り広告の見出しだけを見て、わかったつもりになる人間の事を指しています。吉田拓郎というより、作詞家の岡本おさみという人の造語だと思うのですが、中身のない薄っぺらな自分を、もっともらしく飾っている人間を、実にわかりやすく表現した言葉だと思います。
今なら「ヘッドライン人間」とか「インデックス人間」とか言うんですかね?カタカナだともっと軽薄な感じは出ますが、「見出し人間」のほうが一発で理解できますね。
この曲を初めて聞いたのはまだ10代の多感な頃でしたから、そうだその通りだ!自分は決してそんな人間にはならないぞ!と思ったものでしたが、その後の長い年月ですっかりその純真さはすり減り、平気で「見出し人間」として生きてきたことを今回この言葉を久しぶりに目にすることで、改めて思い出さされました。
その典型的な例が日経新聞です。ある頃からビジネスマンの必読紙は日経、みたいなことになっていき(少なくとも私の周りではそうでした)、毎日読んでいないと社内外での会話に取り残されることが多くなってきました。当時は電子版のような便利なものはありませんから、朝刊は朝の通勤電車の中で、無理やりスペースを確保して何とか読みます。集合住宅でオートロックなので、新聞は一階のポストにしか届けられず、朝着替えたのちに一階まで新聞を取りに行って出社前に読むなどという事は到底できませんでした。周囲にも同様なサラリーマンが多く、その中でも達人は新聞を文庫本サイズにまで器用に折り畳み、クルクルと折り替えながら読み進めています。またもっと厚かましい人は、前の人の背中に新聞を当てて読んでいたりします。私はそんなに器用でも厚かましくもありませんから、何とかスペースを確保するため努力するのですが、当時の超満員のJR車内ではそれもできないことが多いです。以上は延々と「見出し人間」にならざるを得なかったことの言い訳なのですが、要はそんな状態でも、少なくとも一面、経済面くらいはざっと目を通し、あとは見出しだけでも追っておかないと、話についていけなくなるのです。そしていつしか見出しだけで物事を語ることを恥ずかしいと思わなくなって、立派な「見出し人間」ができあがりました。
今回「見出し人間」という言葉に再会したのは、昔の週刊誌や新聞の見出しよりも、今はもっとお手軽なネット情報がある、という記事でしたが、全くその通りで、「見出し人間」であることを恥ずかしいとも思わなくなった私は、ネットで得られる情報をお手軽に、そのままこのブログにあげたりもしています。新聞や週刊誌の見出しならば少なくとも新聞社、出版社の責任の下で発行されたという一定の信頼感がありますが、ネット情報には危ういものが多いですから、昔より更に悪くなっているとも言えます。
ただネット情報には、ある意見と共にそれに対する反論というものも多く出てきますから、一つの意見にとどまらず、反対意見にも必ず目を通し、自分で判断する癖は付けないといけないですね。