本来なら7月19日の月曜日だった海の日が、今年はオリンピックの関係で昨日の7月22日となりましたが、夏といえばやはり海であり山です。
幼い頃、私にとっての海とは瀬戸内海のことでした。当時はまだ海洋汚染も進んでいませんでしたし、ご存じの通り内海(うちうみ)ですから波は穏やかで、子供でも安心して泳げるきれいな海でした。また海岸の砂も白く光っていて、防風林として多く植えられていた黒松とあわせて、古い言葉ですが「白砂清松」というのがぴったりの美しい風景でした。
白い砂浜と言えば沖縄等の南の島々を思い浮かべますが、これらの砂浜はサンゴが分解してできたもの、それに対して瀬戸内海の砂は花崗岩からできているのだそうです。
大学入学で東京に住むことになりましたが、彼女と海へ行くなどという明るい学生生活とは無縁でしたから、当時は湘南や房総などの首都圏の海へ行ったことは多分なかったと思います。その後社会人になって、韓国、東京、大阪、兵庫、岡山と転勤しましたが、韓国と、その後戻ってきた東京ではやはり海水浴の機会はなく、その後何度か同僚や友人と海水浴に行ったのもすべて瀬戸内海でした。生まれてから瀬戸内海でしか泳いだことがなかったんですね。
転勤で再び首都圏に住むことになり、その頃は結婚し子供もいましたから、海水浴に連れて行くようになって、初めて瀬戸内海以外の海へ海水浴に行きました。行ったのはもっぱら外房の九十九里でしたが、まず驚いたのが瀬戸内海とは比べ物にならない程荒々しい太平洋の波、そして黒ずんだ海岸の砂でした。
そういえば同じ四国の海でも太平洋に面した高知では、砂浜の砂はやはり白くはなく、房総と似た黒っぽい砂のところが多かったです。
高知といえば、高校時代の友人が大学の部活(武道系)の夏合宿で高知を訪れ、桂浜近くで合宿した時の話です。桂浜は波が高く潮の流れも速いことから遊泳禁止となっているのですが、ある日の練習後、友人を含む下級生数人が先輩たちから、今すぐ桂浜に飛び込んでもういいというまで泳いで来い、という命令をされたのだそうです。練習態度が気に食わなかった先輩の鶴の一声という、当時の体育会系あるあるだったのですが、道着が水を含んで重くなりますから泳ぐことは普段より格段に難しく、頭から大きな波を受けて海中に押し込まれたと思ったら引き波のために足をさらわれて岸から沖へ流され、という状態で、波打ち際にいる先輩たちからは目と鼻の先程度しか離れていないのに、このままでは本当に溺れると覚悟する程だったそうです。最初はもがいている下級生たちを見て笑っていた上級生たちもその様子を見て慌て始め、道着の帯等を投げて順にひっぱりあげはじめたのですが、帯の届かない距離でいた彼は、こうなったら引き波に逆らわず遠く沖に見える漁船を目指そうと覚悟を決めて、逆に沖を向いて泳ぎ始めました。実は彼は元水泳部で、自分が海で溺れるなどとは思ったこともなかったので、先輩の無理難題も割と平然と受けており、この時点でもこの波を避けて沖に出さえすれば、道着を海中で脱ぎ捨ててしまえば、たとえその漁船が何キロ先にいたとしても大丈夫と思っていたのだとか。それを見て更に慌てた先輩たちが、数本の帯を急いでつなぎ合わせて投げたのが運よく彼の体に当り、それをつかんで何とか引き戻してもらって事なきを得たのだそうですが、遠くまで離れていたという友人でさえ、ほんの数メートル先で溺れかけていたことになり、この日の桂浜は相当波が高かったんだと思います。
外房でウチの家族が泳ぐところは当然遊泳禁止ではありませんし、監視員もちゃんといましたが、やはり同じ太平洋岸ということで小さな子供位は簡単に飲み込みそうな危険を感じる波なのは確かでした。そして友人から聞かされた桂浜の一件と、瀬戸内海と違って太平洋は怖いぜ、という言葉も憶えていましたので、近くだからと安心せず、本当に子供にすぐ手が届くところにいるように気を付けていました。
私が子供の頃も流石に小学生だけで海へ行くのは禁じられていましたが、大人に連れられて行った後は割と放置状態で、自由に子供だけで海に入っていたのとは全く違った緊張感が親としてはありましたね。