先日猛暑の記憶みたいなことを書きましたが、その後は全国的に大雨となり、結果気温はさほど高くならない日が続きました。そしてその時書いたことが昔の田舎暮らしを思い出すきっかけともなりましたので、ちょっとまとめてみます。
私が生まれたのは昭和20年代の終わり、西暦では1950年代半ばですから、まだまだ戦後という言葉がぴったりの時期だったと思います。物心ついたのは昭和30年代、中高の多感な時期が昭和40年代ということになります。私は事情があって四国の瀬戸内側に住む父方の祖母に育てられたのですが、当時祖母は民間企業でパート的に働いていて、公務員時代の恩給を合わせても家計が裕福でなかったことは確かですので、当時の平均的暮らしからはちょっと割り引いて読んで下さい。
まず、私が物心ついた頃、我が家には電気こそ通じていましたが水道はなく、隣の遠縁のウチの井戸水を毎日バケツで汲んできて炊事、洗濯をしていました。戦時中に空襲が激しかった北九州地区から疎開し、四国の遠縁を頼って住み始めて、インフラも整わないまま戦後も定住してこの時に至ったという状況でした。
当時私の住んでいた地域にはまだ公営の水道はなく、各戸井戸水をモーターで汲み上げたり、釣瓶で汲み上げたりして使っていましたので、井戸がない家(殆どありませんでしたが)は、このように貰い水をするしかありませんでした。井戸を掘るという選択も当然あったのでしょうが、隣家は遠縁ということもあり、しばらくしてモーターでくみ上げた井戸水を我が家にも送れるように配管してくれ、以降我が家でも蛇口をひねれば水が出るという、今では当たり前の生活が送れるようになりました。
またそこからしばらく時がたつと、公営の水道が敷設されることになり、各戸の井戸水は飲料以外での使用と変わっていきました。しかし最初に水道水を飲んだ時の感想は、何てまずい水なんだろうというものでした。井戸水のほうが格段においしかったですし、何より夏は冷たく、冬は暖かい井戸水は最高だとその当時思ったものです。
貰い水をしていた頃は当然風呂もなく、その親戚で貰い湯をしていましたが、水が通じてしばらくした頃、水道を引いてくれたその家のおじさんが、手作りで薪で焚く五右衛門風呂の風呂場を作ってくれました。とても器用な人で、素人ながら大工仕事もお手の物、後には私の勉強部屋も作ってくれました。
電気は通じていたはずなのですが、かすかにランプの記憶もあり、これが当時の我が家の記憶なのか、後付けの他の記憶なのか定かではありません。我が家の記憶だったとしても、時代的には停電時等の緊急の備えだったと考えるのが妥当な気はします。
炊事はカマドで、たしか二口の焚口があったと思います。ですから薪も必需品で、休みになると祖母に連れられて裏山の林に薪取りに行っていました。林の整備のためには下草刈りや枯れ枝、落ち葉の掃除は必須の作業ですが、当時それらは貴重な燃料ですので、所有者の許可をもらって掃除方々ということでやっていたんだそうです。それには祖母が元教員だったこともプラスに働いていたみたいです。周囲に教え子が沢山いましたから、、。
そしてこれもしばらくしてプロパンガスのコンロに置き換わりましたが、風呂だけは最後まで薪の五右衛門風呂で、沸かすのは私の役目でした。
あとはトイレですが、御想像通りどの家も汲み取り式で、バキュームカーなどは来ませんから、農家の肥料として普通に使われていました。町役場からバキュームカーが来るようになり、各戸浄化槽を備えて水洗トイレも増えてきたのは私が実家を出た後になってからのことです。
昔の記憶は美化されるといいますが、こうやって書き記してみると、牧歌的ではあるものの決して暮らしやすくはなく、衛生面でも劣悪だったと思います。戻りたいかと言われれば「NO!」というのが答えで、一時的にこの不自由さを楽しむ、キャンプ程度にしておきたいです。