数か月前にビートルズの歌から村上春樹、村上龍と連想が広がり、何十年ぶりかで両者の作品を読んだことを、下のとおりブログに書きました。
両村上氏の作品では、「ノルウェイの森」「限りなく透明に近いブルー」を読んだのですが、限りなく透明に近いブルーは再読にも関わらず読み進むのに結構苦労し、一方ノルウェイの森の方は初見ですが意外とすんなり読めました。
読後感が悪くなかったので、そこに登場したサリンジャーやフィッツジェラルドにも興味を持ち、まずサリンジャーの名作「ライ麦畑でつかまえて」と「ナイン・ストーリーズ」を買ったのです。
でも正直言ってこれは青春の名著というのがふさわしい作品だと思いますし、読むのが40~50年遅いです。当時の私は米文学ではスタインベックの「怒りの葡萄」とヘミングウェイの「老人と海」という超有名作品程度しか読んでいませんでしたし、その後も積極的に読もうと思ったことはなく、米国の作品と言えばもっぱらSFやスリラー・アクション物でした。
まずは「ライ麦畑でつかまえて」から読み始めたのですが、思いの外とっつきにくくて、ちょっと読んでは休み、また思い直して読み始めてはしばらく放置、という状態が2カ月近く続いていました。
そして先日の夜、何だか眠れない日があって、その時に読み残していた七割程をようやく読み終えたのですが、こんなことでもなければ未だにグズグズしていたんだろうと思います。そして今はナイン・ストーリーズの「バナナフィッシュにうってつけの日」という短編から読み進めているところなのですが、何でこんなに難儀しているのかをちょっと考えてみました。
まず第一に考えられるのは、ライ麦畑でつかまえては16歳の多感な少年が社会や大人に抱く不信を描いているもので、他の作品の主人公も10代20代の若者ですから、その主人公たちに不信の目で見られる側にどっぷり浸かった日々を長く送ってきた私には共感しにくいというものです。
そして第二には、やはり時代のせいか訳がとても古臭く感じたということがあります。私が読んだのは、野崎孝という人の翻訳版で、名訳といわれているもののようですが、どうも馴染めなかったです。
ライ麦畑でつかまえての帯には「発表から半世紀、いまなお世界中の若者たちの心をとらえつづける名作の名訳」となっていますが、今も若者の心をとらえる名作なのは間違いないでしょうし、名訳なのも間違いないのでしょうが、上にも書いた通り、年取って感性も鈍り、反体制側ではなく体制側に安住してしまった爺さんには響き難かったという事だと思います。
訳についても、最初の数ページで出てきた「イカシタ」「イカレタ」「チンケナ」「しょってやがる」といった当時の若者言葉(?)に凄く抵抗があって、それが読む気を無くさせた大きな原因です。若い頃の石原裕次郎や小林旭が映画で使っていた言葉みたいでしたが、これも10代で読んでいたらこんな感想にはならなかったと思います。いっそ村上春樹訳で読んだ方が良かったかも知れません。
とはいうものの、夜中に一気読みするようなまねができたということは、上記の抵抗感が薄れてくればやはり面白い作品だという事なのでしょうし、現に短編集のナイン・ストーリーズの方は割とサクサク読めています。
言い訳ばかりしていますが、そもそも若い頃読んでいたとしても、私の感性では理解できなかった可能性も十分あります。