現在ヒット中の映画「国宝」の原作を読んで、吉田修一という人の作品に興味を持ち始めました。彼は芥川賞作家であり、受賞作は「パーク・ライフ」という作品なのですが、まずはタイトルに惹かれた「平成猿蟹合戦図」から読んでみることにしました。
一見すれば何の関係も無さそうな人々が次々に登場し、その関係が次第に明かされて行くという筋立てで、最初は淡々と話が進んで行きますので、途中までは正直退屈でもあったのですが、それらの伏線が回収され始めると面白くなってきました。
そもそも何が「猿蟹合戦」だったのか、「合戦」ではなく「合戦図」なのはどういう理由だったのか、ということは読み終わってもしばらくはわからなかったのですが、それを抜きにしても純粋に面白い小説でした。
ネタバレせずに紹介することは大変難しいのですが、元の昔話の「猿かに合戦」では、狡い猿がお人好しの蟹を騙しておにぎりや柿を横取りした上に殺してしまいます。そして最終的には蟹の子供とその仲間たちに猿は復讐されて死んでしまうという物語ですから、それをこの作品に当てはめれば良い訳なのですが、特に話の序盤ではそれが明確になりませんし、弱者である蟹が完全な善で、強者である猿は完全な悪、といった単純な描き方もしてはくれませんので尚更で、読み終わってもすぐに昔話の「猿かに合戦」とは重なり合いませんでした。
また芥川龍之介には「猿蟹合戦」という新解釈の短編があるのですが、これは猿・蟹の善悪を昔話とは逆転させた皮肉な作品で、それを読んだ時の記憶が影響したのかも知れませんし、最近の童話では蟹も猿も死ぬことはなく、反省した猿が蟹たちに謝って和解するという筋書きに改作されているそうで、確かに私の記憶でも蟹は死ななかったように思いますから、それも本作と昔話のつながりがピンと来なかった理由なんでしょう。
そして合戦「図」の意味ですが、これは最後までわかりませんでしたのでAI君に聞いて見ると、「単なる物語ではなく群像劇としての構図を強調する意味があり、複数の登場人物がそれぞれの視点で戦いに挑む様子が描かれているので。」と説明されました。群像劇ですから、「猿」「蟹」だけではなく、「臼」「栗」「蜂」などの登場人物一人ひとりの心理まで絵画的に俯瞰して描写することになり、だから「図」だ、という事なんでしょうか。しかし群像劇と言いながら一方の主人公であるはずの「猿」の描写は無いに等しかったですが、これは昔話の「猿かに合戦」でも同様でしたね。
具体的なシチュエーションは書かない方が良いと思いますが、社会的に弱い立場の人々=蟹が、政治家や著名人などの権力者=猿に立ち向かう構図であり、臼・栗・蜂・糞などの助っ人に相当する人物たちもちゃんと登場し、個々の力は弱くても、連帯によって権力の横暴や不正に立ち向かえるという事が描かれます。弱者対強者の勧善懲悪物語であり、仲間の連帯を描く物語であり、現代の仇討ち物語でもあります。
がしかし、法治国家である今の日本では私刑は許されず、仇討ち自体が殆どの場合違法な手段とならざるを得ないですから、それが誰が猿で誰が蟹と単純に色分けできなかった理由でもあります。
またサスペンス的な謎解きの要素もあるのですが、終盤のまとめ方はやや安易かな?という気もしましたし、回収されない伏線が残ったのにもモヤモヤしたのですが、これについてもAI君に聞いて見たところ、「これは作者が意図的に仕掛けた作品の構造であり、読者に解釈の余地を残す重要な要素。これにより単なるサスペンスではなく、倫理的・政治的な問いを読者に委ねている。」と説明されました。
AI君は理路整然ともっともらしいことを並べてくれますのでつい鵜呑みにしてしまいそうになりますが、「講釈師、見て来たように噓をつき」という言葉もあります。ホントなんですかね?