シニアライダーの日常・R1200Rと共に

シニアライダーの日常と記憶、愛車R1200Rと行くツーリングの記録と四方山話。

「背割堤」「天端」何のことかわかりますか?

 

あるネットの記事を読んでいる時、「背割提(せわりてい)」「天端(てんば)」という単語が出て来ました。さらりと説明はされていたのですが、この単語を初見で読めて理解できる人はどれくらいいるのでしょう?私にはできませんでした。

 

ただ「背割提」の方は、この春の桜旅で京都を通過した時に立ち寄った(正確には立ち寄ろうとして立ち寄れなかった)、京都府八幡市の「淀川河川公園背割堤地区」で初めて目にして、その時調べましたので知ってはいました。
AI曰く「背割堤は、2つの河川が合流する地点で水の流れを調整するために設けられる堤防で、合流点を下流側にずらすことで急激な流れの乱れや水位差を緩和する役割を持っています。」で、この時行った八幡の背割提は、宇治川と木津川の合流地点に築かれた堤防であり桜並木で有名なのです。

 

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そして全く知らなかった「天端」についてもAIに説明を求めてみると、
「堤防の最上部、つまり人が歩いたり車両が通行したりできる堤頂部の平らな部分を指します。英語では”crest”や”top of the levee”とも訳されます。ちなみに、天端の幅(天端幅)は、計画高水流量や管理用途に応じて決められており、3メートル以上が一般的な基準とされています。単なる構造上の頂部というだけでなく、管理用道路や散策路としても利用されることが多く、地域によっては桜並木などが整備されている場所もあります。」
とのことでした。AI君さすがに優秀で、とてもわかりやすいですが、「levee」という単語も今回初めて知りました。そのものズバリ「堤防」という意味なんですね。

 

この記事自体は、川沿いの道には何故ガードレールが無いのか?というもので、この「川沿いの道」=「天端の道」なのです。
その理由としては、
「 堤防の治水機能を損なわないため」:ガードレールを設置するには基礎を打ち込む必要がありますが、それが堤防の構造に穴を開けることになり、増水時に水が浸入して堤防の強度を弱める恐れがあります。
「 緊急時の対応を妨げないため」:洪水などで堤防が損傷した際、土嚢などを積んで応急処置を行う必要がありますが、ガードレールがあると作業の妨げになることがあります。
「交通量や道路の性格による判断」:中小河川の堤防や通行量の少ない道路では、コストや景観の観点からもガードレールが省略されることがあります。

 

等があげられていて、実際に転落事故が起きているケースもあるのに設置が進まない背景には、こうした堤防本来の役割とのバランスがあるとの記事でした。
確かに堤防道=天端道にはガードレールが無いことが多く、抜け道として利用されることが多いからか皆急いでいて、すれ違いには気を使います。道幅も上記の通り3mは確保されているのでしょうがセンターラインのない道も多く、ちょっと寄りすぎると即転落という怖さがあるのも事実で、それが背割提(両面が川)ともなれば怖さは増すでしょうね。

 

 

 

 

 

「木曽路」でしゃぶしゃぶ

 

たまには外でしゃぶしゃぶを、ということで土曜日の夕方から妻と船橋にある「木曽路」に行って来ました。
JR船橋駅の北側にあるのですが、駅からは少し歩きますし、この日はかなり暑かったので電車ではなくPOLOで行く事にしました。私は呑みませんからクルマでも特に不都合は無いのですが、土曜日のこの日は船橋周辺がかなり混んでいて、到着にはかなり時間が掛かりました。
昔からJR・京成船橋駅の周囲は渋滞が激しかったのですが、今は高架となった京成が地上を走っていた頃は更にひどい渋滞が日常で、船橋駅に近付くだけで一苦労という有様でした。京成の高架化や周辺道路の整備が進んだからか、当時ほどの事はありませんが、それでも船橋へクルマで行く時はちょっと躊躇します。

 

我が家では、材料を買ってきて自宅でしゃぶしゃぶをすることが多く、特に子供たちが食べ盛りだった頃はとにかく質より量ですから、肉も安いのを大量に買ってきてどんどん食べるという方式でした。ですから当時たまに外で食べる時も「どん亭」という肉食べ放題のチェーンに行くことが多かったです。
その名残か、夫婦二人となった今でも、しゃぶしゃぶはウチでというのが定着していたのですが、この日は二人とも外食気分だったのです。

 

「木曽路」は千葉県にも数店舗ありますが、本拠地が名古屋にある70年以上前に創業された老舗外食企業のようです。元々は「喫茶松葉」という小さな喫茶店から始まり、その後しゃぶしゃぶ専門店として「木曽路」1号店を名古屋に出店したのが現在の業態の始まりとされていました。

 

この日行った船橋北口店は、同じ木曽路でも柏店と比べるとちょっと高級路線に振ったお店のように感じます。柏店が木曽路初体験の店だったのですが、その時にはそんなに高級感は無かったような、、、。単に船橋の方が新しい店だからそう感じるだけなのかも知れませんが。
前日に予約を入れたところ、かなり混んでいるとの事で希望時刻を30分遅らせてやっと席を確保できました。道が混んではいたものの、予約時刻の30分前には余裕を持って到着、一階の駐車場もほぼ満車で、普通車最後の一枠に何とか滑り込みました。

 

この日は肉1.5人分というコースを注文、その代わりご飯は断りました。糖質制限の身ですからこういった調整ができるメニューはありがたいですが、それでもついて来る春雨はちょっと余計ものです。ご飯を食べないとなるとちょっと物足りなくて、肉とホタテバター焼きなどを追加、ちょうど良い位に満腹となりました。
いつもこういった食事の時がっついてしまって写真を撮り忘れるのですが、この日は忘れず撮ることが出来ました。ただ、しゃぶしゃぶを食べている最中の写真は、鍋の中がアクで見苦しくなっていましたのでパスします。しゃぶしゃぶに限らず鍋料理の途中経過ってきれいではないですよね?我が家の食べ方が汚いだけ?

 



行きは妻の運転でしたが、帰りはハイボールを呑んで気持ち良くなった妻を横に乗せて私の運転です。これもいつものパターンで我が家にとっては当たり前なのですが、お店で「ハイボールとお茶」と注文すると、まず間違いなくハイボールは私の前に置かれます。これがどこの店でも「ハイボールはどちらですか?」と聞かれるようになれば、やっとジェンダーレスな社会になったと言えるのかも知れません。ちなみにジェンダーレスはジェンダー(社会的性別)とレス(無い)を組み合わせた和製英語なんだそうです。純粋な英語じゃなかったんですね。

 

久々に神宮外苑散歩、6月19日は桜桃忌でした。

3カ月に1度の定期検査で都内の病院に行き、帰りには神宮外苑を散歩してきました。
検査に行った時はいつもそうしているのですが、余りに暑かったり寒かったり、天候が悪い時にまで無理して歩いたりはしません。また前回は午後から上野で妻と待ち合わせていましたので、この日は半年振りの外苑散歩となりました。
この検査はいわゆる成人病の定期観察で、殆どの場合あまり良くない数値に医師からダメだしをされますので、その時だけは殊勝な気分となって神宮外苑を歩く、というのがパターンなのです。そしてそれとは裏腹なのですが、この日くらい(次の3カ月間の初日に当たります。)は良いだろうと勝手な理屈をつけて、「ホープ軒」のこってりラーメンを啜ったりもしています。

 

今私が経過観察中なのは、コレステロール値、血糖値、尿酸値の3つなのですが、コレステロール値と尿酸値は制御出来ている(まあ服薬中ですから当然なのですが、、、)のに対して、血糖値が芳しくなく、HbA1c(ヘモグロビンA1c)は6.4%です。
これは「糖尿病の境界型」とされる数値で、6.5%になってしまうと糖尿病認定なんだそうで、6.4%は「糖尿病ではないが、血糖値がやや高めで注意が必要な状態」で、放置すると糖尿病に進行する可能性があるため、食事・運動・生活習慣の見直しを強く指導されます。今回だけでなく前回も前々回も6.4%で、辛うじて踏みとどまっているという状態が続いていますので、医師の口調も自然と厳しくなってきました。

 

HbA1cは一時的な血糖値ではなく、赤血球の寿命(約120日)に基づいて、過去1~2カ月の平均を反映するため、直前になってあたふたしても間に合いません。
ヘモグロビンとは赤血球内のタンパク質の一種で、全身の細胞に酸素を送る働きをしていますが、血液中のブドウ糖がヘモグロビンとくっつくと糖化ヘモグロビンになります。血糖値が高いほどヘモグロビンに結合するブドウ糖の量が多くなり、一旦糖化したヘモグロビンは、赤血球の寿命が尽きるまで元には戻らないのです。HbA1cはこの糖化ヘモグロビンがどのくらいの割合で存在しているかをパーセント(%)で表したものです。

 

ということで散歩に行かなくてはという強迫観念もこれまで以上に強くなりましたので、神宮外苑を歩いて帰ることにしました。この日、結果はともあれ検査そのものはいつもより順調に進みましたので、11時前には病院を出ることが出来たのですが、外に出ると青空が広がって既に真夏を思わせる日差しです。外を歩くのをためらうような暑さで、もうこのまま最寄駅から帰ろうかとも思ったのですが、気を取り直して国立競技場の方に歩き始めました。
できるだけ日陰を縫って歩いたのですが、それでも神宮外苑駅に着くころにはTシャツの背中が濡れて気持ち悪かったです。紫陽花も今盛りの筈なのですが、日向ではもう焼けていましたね。

 

 


そしてこの日は6月19日、太宰治を偲ぶ桜桃忌でした。元太宰ファンの端くれだった者として、2年前には彼の墓前を訪れたこともあるのですが、この日は早々に帰宅しました。

 

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桜桃はさくらんぼのことですが、太宰治の好物だったんだそうで、この日には三鷹にある太宰治の墓前にさくらんぼが大量に供えられます。太宰治が入水したのは13日ですから命日そのものは6月13日なのですが、遺体が発見されたのが19日で、太宰と親交のあった同郷の作家、今官一(こんかんいち)がこの日を「桜桃忌」と名付けたために、6月19日の方が有名になったのだそうです。そしてこの日は太宰の誕生日でもあります。

 

 

 

正統派社員旅行で益子、筑波山、牛久へ、2/2

 

社員旅行2日目は筑波山神社のすぐ下にあるホテルから出発です。
筑波山神社参拝にも、筑波山ケーブルカーで山上に向かうにも便利ですし、関東平野を一望できるロケーションも最高なのですが、設備の古さは否めません。今回の社員旅行は2班に分かれての実施で、私は2班の方に参加したのですが、一週間前に先発した1班のメンバーからこのホテルは酷評されていたのです。古い・暗い・気味悪い・かび臭い、と散々な言われようでしたから私も覚悟していたのですが、いざ泊まってみるとそんな悪いかなあというのが実感でした。長いサラリーマン生活での出張で、何百回もの宿泊を重ねていると、中にはとんでもない宿もありましたから、耐性が付いているのかも知れません。確かに古いですし、古い建物にありがちな特有の匂いが染みついているのも確かですが、サニタリーや寝具の清潔さは保たれていますので、最低条件はクリアです。

 

私が人生で最悪と思った夜は、サラリーマンになる前、学生時代前泊して現場に向かう必要のあるバイトに行った時の事です。関東のとあるところに事務所があり、そこに前日泊まって翌日の早朝トラックや車に分乗して現場に向かうのですが、その宿舎の寝具が最悪でした。宿舎自体も飯場と言った方がぴったりのバラックで、積まれた布団に近付くと汗の匂いが襲ってきて、元は白かったらしい生地も黄色く変色しています。触るのも勇気が要る位だったのですが、寒い時期でしたし翌日の仕事を考えると寝ておかない訳にはいきません。結局靴下も脱がず、ズボンもジャケットも脱がず、素肌が布団に振れないように掛布団は胸までで止めてじっと仰向けで朝を迎えました。若いというのは偉いものでそんな状況でも睡魔に負けてそれなりに眠った記憶がありますが、今なら一睡もできないでしょう。そしてあの強烈な匂いにはどう耐えたのか今でも不思議ですが、何組も積まれていた寝具から少しでもましなのを選んだのかも知れません。

 

という訳で、覚悟して臨んだ割には問題なく朝を迎え、この日はここから牛久大仏の見学に向かいました。ここも我が家からスムーズに走れば一時間強で行けるところですから何度も来ています。
前日早朝常磐道で集合場所に向かう時は、筑波山周辺も牛久周辺もかなりの雨だったのですが、集合時間以降は全く雨は降らず、この日は梅雨はどこに行った?という上天気で、とても暑かったです。

 



大仏様の胎内見学(参拝?)の後は同じ牛久市内にある牛久シャトーというところで昼食です。
ここのことは初めて知ったのですが、神谷傳兵衛という人が開設した、日本初の本格的ワイン醸造場で、フランスに現存した醸造場をモデルに、ボルドー地方の技術を用いて、葡萄の栽培からワインの醸造・瓶詰めを一貫して行なっていたのだそうです。敷地内にはレストランがありそこで昼食だったのですが、当時の建物を活かした記念館も見学出来ました。当時のワイン造りの資料や歴史を紹介しており、なかなか興味深かったです。浅草の「神谷バー」もこの方が開業したものなんだそうで、「電気ブラン」も展示されていました。

 

 

当時「蜂印香竄(こうざん=隠しても隠し切れない、豊かなかぐわしい香り:父親の雅号)葡萄酒」という名前で大ヒットしてこの牛久シャトーの礎ともなったのだそうですが、今でも「ハチブドー酒」として売られています。ちなみにビッグマンというペットボトル入りのどでかい焼酎もこのメーカーの製品です。

 

これでこの旅行の観光はほぼ終了、あとは休憩を兼ねて筑西市にある道の駅グランテラス筑西に寄るだけです。北関東最大規模との事ですが、道の駅ではなくここにあった北海道ローカルのコンビニ、セイコーマートで北海道グルメを買いました。なぜか北海道以外では茨城県と埼玉県にだけ出店しているんですね。

 

 

 

 

正統派社員旅行で益子、筑波山、牛久へ、1/2

益子焼体験、筑波山神社参詣、牛久大仏見学という1泊2日の社員旅行に参加させてもらいました。宿泊先の温泉旅館では全員参加の余興付き宴会もあり、なかなか正統派の社員旅行です。今時の若者が果たしてこういうイベントに参加するものなのかなと思っていたのですが、これが若い社員達には却って新鮮に映るようで、参加率も高かったですし、参加したみんなは屈託なく弾けて楽しんでいました。

 

思えば、私たちの世代こそがこういったお仕着せの社員旅行的なものに反発していた張本人であり、その時代を知らず社員旅行そのものがレアとなった今の時代の若者には、案外部活の合宿的なノリで受け入れられているのかも知れません。

 

まずは栃木県の益子町で、益子焼の体験イベントです。「手びねり体験」というのですが、手びねりとは陶芸の成形技法の一つで、ろくろなどの道具を使わず、手だけを使って土(粘土)を成形していく方法です。
ろくろを使いませんから、不規則な形や個性的な作品が作りやすい、ゆっくり成形できる、などのメリットがあり初心者にも入りやすいです。
まず最初に大まかな作り方の説明を受け、各自目の前に置かれた円柱形の粘土を掌でトントンと押しながら拡げて、厚さ1cm程度の円盤を作ります。底部の形を決めたらヘラでくり抜いて、残った粘土をひも状にして周囲に積み重ねて行きます。
私は、簡単そうに思えたので焼き魚などを乗せる四角い皿を作ったのですが、周囲を高くし過ぎたのと底が小さすぎたので、魚用というより焼き鳥用というものになってしまいました。これに各自が指定した釉(白・黒・ブルー)で色付けした上で焼成してくれたものが3か月後に届きます。私はブルーでお願いしました

 

 

その後、陶芸体験の会場二階で昼食を食べ、お土産コーナーで妻の分と合わせて2個のマグカップを購入して、筑波山神社に向かいました。

 

益子町は栃木県、筑波山は茨城県ですが、栃木県の南部に位置し茨城県の県境からも近い益子町から筑波山神社までは大型バスでも40~50分で行ける距離です。GoogleMapでみると最短コースなら40kmあるかないかのようです。
ここには自分のバイクやクルマでは何度も来ていますが、大型バスで筑波山神社までの細い山道を登るのは初めてで、今更ながら大型バスの運転手さんの技量に感心しました。私ならカーブで対向車が来た時点で立ち往生です。

 

筑波山神社は江戸の北東、鬼門に位置することから、江戸の鬼門を守る神社としてあがめられたこともあったのですが、元々は筑波山が「霊峰」として古代から信仰されてきた山であり、自然信仰・山岳信仰が中心でした。筑波山神社自体も、イザナギ命・イザナミ命の国生み神話を御神体としており、夫婦和合・縁結び・子授けといった力が強い神社とされ、鬼門封じの役割というよりも「福や徳をもたらす霊地」として位置づけられてきたのだそうです。

 


ここまでで一日目の行程は終了、あとは筑波山神社のすぐ下にあるホテルにチェックインしたら夕食(宴会)までは自由時間でした。各自部屋でまったりしたり温泉に行ったりしていましたが、私は部屋でのんびり。関東平野を一望できる眺めの良い部屋でした。

 

 

 

 

ようやく衣替えを終えました。

 

6月も下旬となってようやく冬服から夏服への衣替えを終えました。衣替えとは言ってもさほど衣装持ちではない私の場合はそう大ごとではなく、1~2時間もあれば終わるのですが、今年は暑い日もあったものの、急にまた涼しくなったりしてタイミングを失したということもあります。

 

公的な衣替えの時期は一般的に6月1日と10月1日とされていて、学校や企業の制服もこのスケジュールに従うことが多いですが、気温の変化に応じて前後2週間程度の移行期間が設けられることもあり、北海道や沖縄などでは衣替えのタイミングが当然ずれます。また気温を目安にする場合には、最高気温が15℃を下回ると冬服へ、25℃以上になると夏服へ移行するのが一般的だそうです。


衣替えの習慣は平安時代から始まっていて、当時の貴族は季節ごとに衣装を変えて、春には淡い色合いの着物を、秋には深みのある色を取り入れることで、装いを通して自然を感じることが大切にされており、十二単などの宮廷衣装は単なる美しさを追求するものではなく、季節感を表現する役割も担っていたのだとか。

 

その後、武士の時代になると、衣替えは実用性の面でも重要視されるようになり、戦いや日々の活動に適した服装を選ぶために、夏は涼しさを重視した麻の着物、冬は防寒に適した綿入りの着物が好まれるようになりました。そして江戸時代になって、この衣替えの慣習が庶民にも広がり、公的な衣替えの時期も定められたのですが、この「公的」とは、江戸幕府が武士階級に対して制度として定めたもの、という意味です。

 

江戸時代の衣替えは、年に2回だけでなく下記の通り4回行われていたそうです。

4月1日:袷(あわせ)に切り替え、冬物の綿を抜く「綿抜き」の日。
5月5日:単衣(ひとえ)や帷子(かたびら)など、裏地のない夏用の着物に。
9月1日:再び袷に戻る。
9月9日:綿入れ(わたいれ)に切り替え、冬支度の始まり。

日付は全て旧暦で、このように、春と秋に「袷」の時期があるため、実質的には3種類の着物(袷・単衣・綿入れ)を使い分けていたことになります。
江戸時代の「秋の袷」の期間は9月1日から9月8日までのわずか8日間で、しかも早すぎるような気がしますが、これを新暦に読み替えると10月上旬となり、まだ残暑はあるものの、当時は「重陽の節句」(9月9日=新暦の10月10日前後)を境に「秋が深まる」と見なされていたため、そこから冬支度に入るという考え方だったようです。秋の袷は「ほんのつかの間の季節の装い」として位置づけられており、今の感覚からするとそれでも早すぎると思いますが、当時は空調システムなどはありませんから自然の移ろいにはとても敏感で、衣服でその変化に繊細に対応していたんでしょうね。


江戸時代以前の衣替えは、単に衣服を交換するだけではなく、季節の移り変わりを感じるための文化的な行事とも感じられます。衣替えを通じて、「もうすぐ夏が来る」とか「冬の訪れを感じる」といった小さな気付きを得ることもできますので、こうした感覚は今後も残って欲しいと思いますが、自分を振り返って見ると、寒い時期は長袖Tシャツへの重ね着、暑い時期は半袖Tシャツ1枚、それも全部紺・グレー・白の無地で、下はジーンズかチノパン。これでは四季の楽しみ方としてはかなり寂しいですから、衣替えの意欲も湧かない訳です。
現役の頃もスーツは紺かグレーのほぼ無地、シャツもほぼ無地のボタンダウン、終盤にはノーネクタイが普通でしたから、やはり代わり映えしない衣替えでした。半袖ワイシャツは着ませんでしたから、スーツをスリーシーズンから夏用に変えるだけでしたし、今も仕事では襟付きシャツですが、全て長袖なので衣替えの必要無しです。

 

 

 

6月は黒い月?

 

6月も半ばとなりましたが、改めて考えてみると6月は土日以外の休みが一日も無いんですね。
土日以外に一日も休日が無いのは、一年の内で6月と12月だけなのですが、12月には年末年始休暇があリますので、実質6月だけがカレンダーが真っ黒な月です。

 

年末年始休暇は「休日」ではなく「休暇」ですが、言葉の定義で言えば休日は元々労働義務が無い日で、休暇は労働義務があるけれども特定の理由で免除される日です。ならば年末年始休暇は休日なんじゃないかとも思うのですが、その理由は、年末年始休暇が 企業の裁量で設定されるものであり、労働基準法で定められた「(法定)休日」ではないからです。企業が従業員に対して「この期間は休んでよい」としているために休暇として扱われるということなんですね。「働く義務があるのに休んでいる」というよりは、会社が制度的に労働義務を免除しているので結果的に休めるのです。

 

そして国民の休日も法定休日ではありません。法定休日とは、「週に1日以上の休日」または「4週間で4日以上の休日」を企業が従業員に与えることが義務付けられた日であり、国民の祝日は祝日法に基づいて定められた休日で、企業が休業するかどうかは企業の裁量に委ねられています。ですから年末年始休暇や国民の休日に出勤しても割増賃金は支払われない(もちろん支払うことはOKです)し、それでも違法では無いということになります。

 

ここで「休日」についても気になりだしましたので更に調べてみると、「国民の祝日」と「国民の休日」というものがあって、これは似ているようで実は異なる概念なんだそうです。今回初めて知ったのですが、国民の祝日とは「国民の祝日に関する法律」によって定められた日本の公的な休日で、例えば元日(1月1日)や成人の日(1月の第2月曜日)など、我々が一般的に休日と考えているものです。一方国民の休日とは祝日法の規定により、2つの祝日に挟まれた平日が休日となる場合を指し、例えば、「敬老の日」と「秋分の日」が一日空けて出現した年(秋分の日は年々変わりますし、敬老の日も9月の第3月曜日ですから、年々変わります。)、その両日に挟まれた平日が「国民の休日」として扱われる、といった具合です。

 

ということで6月には、国民の祝日も国民の休日も世間で一般的な休日に近いと考えられている一斉休暇もありませんから、ドラえもんののび太は、6月は大嫌いと言っていたんだそうで、カレンダー通り暗黒の月と思っていたんですね。が、実はこの6月に休日が出来ようとしたことがあったらしく、それが今は8月11日となっている「山の日」です。
6月に山開きが行われることが多い(富士山は7月)ので、それに合わせる案が有力だったのですが、ただでさえ諸外国に比べて多い(実感ありませんね)日本の休日を増やすことに企業や教育現場からの反発が強く、お盆休みの時期と重なる為に中小企業への負担が少なく、学校の休みも増えない8月11日に落ち着いたのだとか。「八」の字が山の形に見え、「11」は木が立ち並ぶイメージがあるために自然を連想させる数字として選んだのだそうですが、八は漢数字、11は算用数字ですからこじつけ感は否めません。当初は8月12日が候補とされていたのですが、1985年の日航機墜落事故の日と重なるために変更されたのですから、やはり後付けですね。
ただどちらにしても夏休みの真っ最中で、学生には全くメリットありません。

 

現在では6月10日の「時の記念日」を国民の祝日に、という動きもあり、この日は、1920年に東京天文台(現在の国立天文台)や生活改善同盟会などが提唱して制定、現在では、日本記念日協会が記念日として登録・管理しています。前回「5月24日は伊達巻の日」で知った日本記念日協会がここでも出てきました。
これは日本で初めて時の知らせが行われたことを記念する日で、天智天皇の時代に、日本で初めて水時計(漏刻)が設置され鐘を打って時を知らせたことが「日本書紀」に記録されており、それが671年4月25日、新暦では6月10日に相当するのだそうです。

 

働く人にも学生にも待望の休日と言えるかも知れませんね。

 

 

 

鮨を食べに舘山まで行ったのですが、、、。

 

妻を誘って館山にある「鮨芳」という寿司屋さんに昼ご飯を食べに行くことにしました。「わざわざ」という距離なのですが、それだけの価値がある寿司屋だと私は思っています。まだ若い大将が、昼間は一人で切り盛りしていることが多いこじんまりした店なのですが、館山で取れる地魚にひと手間掛けた鮨が気に入っているのです。
私がソロツーリングの途中でこの店の前を通り、ネットで調べてみたら評判も良かったので入ってみた、というのが最初なのですが、その後単独でも妻を誘っても何度か通っています。

 

今回は、高齢となった義父母のケアで疲れ気味の妻の慰労という意味もありました。近くに住む義父母は、要介護までは至っていないもののやはり日常生活には何かと不自由なことが増えて、一人娘である妻は私から見てもとても甲斐甲斐しく世話をしているのですが、お互い肉親の遠慮のなさもあってか、最近では心身ともに落ち込むことが増えています。
外食に連れ出すことでその分我が家の家事からは解放されますし、美味しいものを食べることでストレスも発散されるでしょう。更に館山までの道中はそれだけでドライブですし、房総の海でも眺めればより良し、と考えたのです。

 

となれば妻にPOLOの運転をさせる訳にもいきませんし、前回の「花はなの里」への行き帰りで、妻はHIACEの高い視点でのドライブが気に入ったみたいですから、今回はHIACE出動となりました。高速走行はPOLOの方が断然楽なのは確かですが、、、。
昼の営業に合わせて9時半頃自宅を出発し、ちょうど12時に鮨芳に到着しました。日曜だというのに駐車場には1台しかクルマが停まっておらず、嫌な予感がしたのですが、案の定店前には「都合により急遽休みとさせていただく、、、」という旨の貼り紙がありました。

 

がっかりな事この上ないですが、嘆いていても仕方ありませんから次善の策として鮨芳のすぐ近くにある「味処あさみ」という魚介料理の店に行くことにしました。ただここもかなりの人気店で、私はまだ行ったことが無かったのですが、海鮮丼を目当てに遠方から来る人も多いらしく、日曜のこの時間入れるかどうかは心配でした。鮨芳からはクルマならほんの数十秒の距離ですからすぐ行って見たのですが、案の定狭い駐車場は満車で、向かいの「ODOYA」という千葉ローカルスーパーの駐車場にクルマを停めて入店している人もいました。さすがにそれは気が咎めましたので、近くを一回りして来ることにして、この町にある相浜漁港のあたりをゆっくり走りながら海を眺めて戻ってみると、丁度1台空きが出ていました。

 

入店してみると意外と店内は広く、すぐにカウンターに案内されて、妻は「かま焼き定食」私は「あら煮定食」を注文しました。海鮮丼や刺身定食が売りなのはわかっていたのですが、生魚は二人共鮨芳の気分となっていましたので、それぞれ焼魚・煮魚としたのです。どちらも結構なボリュームで、ご飯が無くてもお腹いっぱいになる位でしたし、偉そうなことを言わせてもらえば味も確かでした。

 

 

満腹となって「あさみ」を出た後は、目の前にある安房の国一之宮「安房神社」にお参りしていくことにしました。最初は野島崎灯台まで行って太平洋を眺めてこようと思っていたのですが、このあたりから雨脚が少し強くなってきましたので、海は断念しました。
安房神社は流石安房の国一之宮だけあって境内はしんと静まり返って厳かな雰囲気です。しとしと雨が降っていたので音が吸収されていたのかも知れません。
帰りには鳥居横にあった茶屋で和菓子と抹茶を頂きました。若い頃抹茶は苦いだけだったのですが、今では和菓子とのセットがとても美味しいと思うようになりました。店内にはどういう縁なのか「さかなクン」のイラストが飾ってありましたが、彼は絵もとても上手いんですね。後で調べてみたら、彼は今活動の拠点を館山としているのでした。

 

 

その後は冨浦まで戻り、道の駅で今旬を迎えている名産の「枇杷」を買って帰りました。この枇杷とサクランボ、無花果(イチジク)、柘榴(ザクロ)は四国の実家の庭に植えられていて、私にとってはタダ(無料)の果物だったのですが、今ではどれも高級品ですね。4Lという一番大粒なサイズのものには驚くほどの値が付けられており、ウチが買ったのはもっともっと小粒で安いやつですが、それでも高い!L~4Lが300円~600円/個といった感じですね。
この日は調子に乗って糖質・カロリーを取りすぎましたので、今後またしばらくは夫婦ともに節制が必要です。

 

 

東京国立博物館で蔦屋重三郎展・浮世絵現代展を観て来ました。

 

東京国立博物館=東博の平成館で、6月15日まで「蔦屋重三郎 コンテンツビジネスの風雲児」という特別展をやっているので一緒に行かないかと妻から誘われました。

 

蔦屋重三郎は今年のNHK大河ドラマの主人公ですが、我が家では久しぶりに初回から通しで鑑賞している大河ドラマとなります。お堅いイメージのあるNHKにしては踏み込んだ内容で、舞台となる吉原遊郭の描写も中々リアルなのですが、その為に家族で観られない(子供と観られない)という声も多く、視聴率は低迷しているようです。
主演の横浜流星くんをこれまで名前くらいしか知らなかったのですが、とてもいい演技をしていて、このドラマを観始めた後で知った長髪でイケメンな素顔より、こちらのかつら姿でしかイメージできなくなってしまいました。

 

翌日の朝から福島県の郡山市で所用がありましたので、この日はハイエースで夜までに現地入りして車中泊の予定でした。ですから行きはハイエースに妻が同乗し、上野の東博で別れたら私はそのまま郡山へ、妻はJRで帰宅という事にしました。ハイエースで都内に向かうのは今年の桜旅で甲州街道を通って西に向かった時以来です。

 

そして5月の中旬にやはり上野のしたまちミュージアムに来た時と同じく、昼食は銀座の筋肉食堂です。コリドー街に近い駐車場と言えば外堀通りの地下にある西銀座駐車場が思い浮かびましたので行って見ると、ここは高さ制限2mで、ハイエースは入れませんでした。通常こういった地下駐車場も高さ制限2.1mのところが多く、車高1.98mの標準ルーフなら問題ないのですが、2mなら2cmのクリアランスしかなく、まず止めた方が無難でしょう。何気なく入ってしまう所でしたが、直前で気が付いて良かったです。結局旧リクルート本社ビル(現在建て替え中)の隣にあったコインパーキングに停めたのですが、10分500円上限なしと、流石銀座という価格設定です。
この日妻は前回と同じリブステーキを選び、私は赤身ハンバーグ目玉焼き乗せというものにしてみました。しっかりした歯ごたえと肉感で満足度は高かったですが、例によって写真を撮り忘れましたのでHPの写真を拝借。

 

筋肉食堂のHPより

その後は東博のある上野公園に向かいましたが、不忍池側は混んでいそうでしたから、裏手の谷中の方にハイエースを停めて東博まで歩くことにしました。ある程度近くなったところでセブンイレブンとデニーズが共有しているコインパーキングを発見してそこに駐車。東博まで東京芸大の前を歩いて10分程でしたが、この日は木陰を歩くと涼しい風が吹いていて、とても快適な散歩となりました。

 

特別展が開催されていた平成館は大変な混雑で、人の波に押されるようにして展示物を順にゆっくり眺めて行くという状態でした。これは私の一番苦手な状況で、興味のある所ではじっくり、そうでもないところはあっさり、という自分のペースで観られないのはとても苦痛でした。会期が6月15日までと迫っていたこともあるのでしょうが、平日とは思えない混みようでした。結局途中からは人波を避けて後ろから遠目にみるだけで終えたところも多く、その代わりと言う訳ではありませんが、表慶館で開催中だった浮世絵現代展をゆっくり見物してきました。しかし目玉の一つ、草間彌生さんの七色の富士は写真を撮った積りが痛恨の撮り忘れ。

 

 

この後敷地内のカフェでお茶を飲んで妻とはお別れし、私は郡山に向かいました。
この日は東北道に乗ったら最寄りのSAまで行ってそのまま車中泊の積りでしたから、高速に乗る前に入浴と食材調達を済ませます。食料は駐車場のところのセブンで買い込み、風呂は板橋区にある入浴施設をマップで探して行って見ることにしました。上野界隈でも銭湯はありましたが、駐車場に困りそうでしたので、板橋まで足を延ばすことにしたのです。「前野原温泉さやの湯処」という施設で、天然温泉・駐車場完備と申し分ありませんでしたが、平日16時前にもかかわらず大勢の入浴者がいました。人気の温泉なんでしょうね。
この日は温泉でのんびりしたせいで時間が遅くなり、郡山まで行くことは止めて那須高原のSAで車中泊し、翌朝郡山市内に向かいました。都内から埼玉にかけてはかなり暑かったのですが、やはり那須高原は涼しくて夜間は17~18℃まで下がり、車内も寒い位でした。

 

 

ブログ7年目を迎えています。

ちょっと遅れましたが、このブログが6月1日で7年目を迎えました。
今回の記事が1,107本目で、閲覧数が26万強となりましたので、平均して250人余りの方に見て頂いたことになります。直近では100件前後まで閲覧数が落ちているのですが、何の情報発信もしていない年寄りの日常ブログにもかかわらず、毎回読んで下さる方がいることが、これまでブログを続けて来られた大きな要因であるのは間違いありません。

 

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この初回のブログを読んでみると、バイクに乗ること、キャンプに行くこと、散歩をすること、などを余暇のつぶし方として挙げていますが、近頃ではどれも実践できていません。
特に愛機であるR1200Rにはとんとご無沙汰状態で、年に1~2回お呼びがかかる元職場のツーリング仲間とのマスツーしか行かなくなってしまいました。以前ほどのバイク熱が無くなってきたのは確かでしょうが、それでもバイクに跨ると「ああ、これこれ!」という快感は甦りますし、それまでバイクもそろそろ潮時かなと思っていたのが、やっぱりもう少し乗りたいと思い返すことが続いています。

 

バイク熱が冷めて来たこと以外で考えられる原因は、ハイエースという新しいオモチャを手に入れたことで、案外主原因はこちらなのかも知れません。これは若い頃からの念願だった桜前線を追う旅の足として手に入れたもので、当初はワンシーズン日本列島を南から北に縦断する車中泊旅に耐えてくれればそれで良し、という程度の位置づけでした。
ところが知人から想定以上に程度の良い中古ハイエースが入手でき、本番前のお試し旅で東北や九州を巡っている内に、車中泊旅それ自体に嵌ってしまい、桜旅以外でもことあるごとにハイエースを引っ張り出して車中泊旅に出るようになったのです。
大きなバイクに乗られている方はおわかりだと思いますが、バイクを出動させるのには案外手間暇がかかり、キー一つ持ってすんなり出掛けられる車中泊旅とは手軽さが違います。特にマンション暮らしでバイク保管場所が自宅から徒歩数分の所にある私の場合、億劫さは自宅ガレージの方の数倍ともなります。

 

そして昨年2024年の春にいよいよ桜旅がスタートしたのですが、いざ旅を始めてみると、桜は日本列島を南から北へ順序良く咲いてくれないことがわかり、1年で桜旅完結とはならないこともはっきりしました。2年目の今年でもまだ見残している地域は多く、2026年、場合によっては2027年までもずれ込みそうな雰囲気です。程度の良いハイエースが入手出来て、まだあと何年でも活躍してくれそうなのは幸いだったのですが、そんなこんなで愛機R1200Rの出番は今後も劇的に増えることは無さそうです。ブログタイトル「シニアライダーの日常・R1200Rと共に」も看板に偽りあり状態なのですが、タイトルを変えてしまうといよいよライダーではなくなってしまいそうな恐れもありますので、もうしばらくはこのタイトルで続けようと考えています。

 

もう一つのキャンプについては、バイクと一体のキャンプツーリングを想定していたのですが、車中泊旅でもソロキャンプ用のグッズ類は活躍してくれています。車中泊自体が屋内泊と屋外泊(テント泊=キャンプ)の中間的なものですから、まあ一部実践できているとしましょう。

 

最後に散歩については、ブログでの宣言云々は別にしても、健康維持のために続けなくてはいけない状態ですし、妻もそこに参戦せざるを得なくなってきていますから、以降は積極的に出かけることになります。(正しくは、出かけなくてはなりません。)

 

6年前の初回ブログでは、それまで忙しくしていたのが急に暇になってボケる、という事を恐れて色々目標を立てていたようですが、その後6年間はおかげさまでというか、貧乏暇なしというか、結構忙しくしていましたので、暇を持て余すという事はありませんでした。むしろ隔日で1,500文字をノルマとしているこのブログを書く時間を捻出するのに四苦八苦という事も多く、それは想定外でした。
今後は歳も考えてもっとゆっくりしていきたいのですが、若い頃には今はやりのFIRE的な生活にあこがれていたはずの私に、働きアリの資質が多く含まれていたらしいのは自分でも意外でした。

 

 

 

花はなの里オートキャンプ場に行って来ました。

 

前日まで荒れ模様だった天気が回復し、行楽日和となった6月最初の日曜日、娘と彼氏、私たち夫婦の4人で富津市にある「花はなの里オートキャンプ場」にデイキャンプに行って来ました。保護猫や犬が場内で自由に暮らしていて、彼らとのふれ合いが売り物の素朴なキャンプ場です。

 

娘の彼の家庭は犬派だったようで、幼いころから常にワンコがそばに居て、猫とのふれ合いは殆ど経験が無いのだそうです。このオートキャンプ場の事を話してみると是非行きたいということでしたので、チャンスをうかがっていて、この日それが実現したのですが、梅雨前の不安定な天候が続いていましたのでそれが心配でした。

 

娘からは彼がこの日をとても楽しみにしていて、中止となれば落ち込みそうとも聞いていましたので、もし雨天なら隣の君津市にある「ドリプレ・ローズガーデン」という英国風庭園を押さえとして考えていました。ご夫婦が丹精して作り上げた庭園で、ここでも猫たちが自由に暮らしているのですが、カフェレストランがありますし、猫たちが寝ているハウスもありますから、雨でも楽しめるのじゃないかと思ったのです。ただここはローズガーデンという名前でもわかる通りバラが売り物の庭園で、今まさにバラの最盛期を迎えていますから、この時期の日曜日に急に行って、果たして入場できるのかは不透明でした。私たちが以前ここに行ったのは去年の12月の初めでしたからシーズンオフで、ゆっくり猫とも触れ合えたのですが、、、。

 

そんな心配をしながらも、徐々に予報も良い方に変わって行き、当日は前日までの強風も収まって上天気となりました。
娘たちとは君津市内のスーパーで待ち合わせて、食材の買い出しをした後現地には11時過ぎに到着、早速ハイエースの横にタープを張ってバーベキューの準備です。私のは専用のカーサイドタープではなく、ソロ用の小さなヘキサタープですが、十分役に立ってくれています。

 

 

初めは簡単にガスだけでやろうと思っていたのですが、手持ちのガスコンロ(私がキャンプ用に持っているのはイワタニのタフ丸ジュニアという奴とSOTOのシングルバーナーです。)だとどうしても鉄板焼きとなってしまいます。油を控えたい私たち夫婦にはやはり網焼きだなと直前になって考え直し、娘たちの手元にあるという炭を持って来てもらうことにしました。
ところが長期保存していたらしい炭がなかなか着火してくれず、手元にあった着火剤「今治のホコリ」を使い切ってもまだ火力が上がりません。急遽着火剤と炭を現地調達して何とかBBQは出来たのですが、「ジュージュー」という景気の良い音は殆ど聞かれず、かすかな「シューシュー」という音に終始したBBQでした。

 

 

まあこの日はBBQではなくニャンコとのふれ合いがメインでしたし、その点では娘の彼氏も堪能してくれたようですから、この日の目的はほぼ満点で達成です。17時のチェックアウトタイムギリギリで撤収を終え、恒例の館山道渋滞に巻き込まれながら船橋周辺まで帰ってきたところで一緒に夕食を取って、その後解散しました。私たち夫婦と娘もちょうど1年ぶりの訪問となり、猫ロスが多少なりとも解消できました。

 

このキャンプ場は私と同年配の(ということはかなり高齢の)女性オーナーが切り回していたのですが、なかなか広い場内の維持・整備には手が回っていないんだなと感じさせられるところも正直ありました。私なんかはその素朴さ・気取らなさが気に入っていたのですが、昨今の高規格キャンプ場に慣れた人には向かなかったのかも知れません。ところが去年から息子さん(?)と思われる男性がメインで運営に携わるようになって、設備や備品も徐々に更新され始め、システムも近代的に変わってきています。オーナー女性はワンコやニャンコとふれ合いながら、できることを手伝うというスタンスのようで、とても穏やかな感じとなって若返ったような気さえします。かといって一気に高規格キャンプ場に衣替えという雰囲気もありませんし、今のままの路線で今後も長く愛されるキャンプ場であって欲しいです。
ニャンコとの初の濃厚接触で嬉しくなった彼氏が沢山の写真を撮ってくれましたので、何枚かランダムに掲載しておきます。

 


 

 

 




 

BABYMETALロンドン公演のディレイビューイングに行って来ました。

 

サザンオールスターズのライブビューイングの翌々日、今度はBABYMETALのロンドンO2アリーナライブのディレイビューイングに行って来ました。ベビメタに興味が無い妻は不参加ですから、今回は私単独です。

 

5月30日にBABYMETALがロンドンO2アリーナで行ったライブを日本各地で上映したもので、リアルタイムのライブビューイングは日本時間で5月31日午前5時からだったのですが、私は早朝5時に合わせて参加するまでの熱意が不足していましたので、同日午後5時からのディレイビューイングに参加したのです。
BABYMETALは2016年にロンドンのウェンブリーアリーナで日本人グループ初となる単独公演を開催しているのですが、ヨーロッパ最大級となる2万人収容O2アリーナでの単独公演も日本人アーティストとしては初めてなんだそうです。

 

日本人女性3人ユニットのベビメタは、結成当初からのメンバーであるメインボーカルが27歳、ダンス・コーラスの一人はまだ25歳という若さなのですが、既に15年のキャリアがあります。それぞれ12歳、10歳から活躍しているのですから大したもので、2014年には、イギリスで開催されたSonisphereという大規模フェスのメインステージで、5万人の大観衆を前に堂々としたパフォーマンスを披露しています。その後当初メンバー3人の内1人が脱退し、新加入したのは、あの博多華丸さんの娘さんです。

 

今回は自宅近くに上映館がなく、幕張のユナイテッドシネマとなりました。17時上映開始なのですが、余裕を持って到着して軽く腹ごしらえをする積りで14時過ぎには自宅を出発しました。ところが5月最後の土曜日だったこの日は船橋周辺から幕張に至る一帯が結構な混雑で、特に千葉県運転免許センターの南側にできているイオンモール幕張新都心の周辺は大混雑でした。1時間もあれば着けると軽く考えていたのが、結局駐車場にハイエースを停めたのが16時過ぎ、2時間もかかってしまいました。

 

それでもまだ1時間近くはありますから、ユナイテッドシネマのあるビルに入り、食べ物を物色し始めて、そこで初めて財布を持ってこなかったことに気付きました。
まあスマホは持っていましたし、そこにSuicaやEdy、PayPayなどの各種電子マネーは入れてありますから大丈夫とは思ったものの、ふと気になって駐車場に戻り電子マネーが使えるか聞いてみたところ、自動ゲートの横で誘導していた係員の方からは「現金のみです!」という悲しい返答が、、、。それに加えて誘導員の方もゲートを特例で開けるという権限は無く、もう少しすればこの人も撤収してあとは無人となるのだそうです。

 

困りました。妻に連絡して財布を持って来てもらうというのが最終手段ですが、他に何か手は無いかと考えて思いついたのが、この駐車場は映画鑑賞により3時間までは無料となるので、まず映画館受付で証明を先にもらってきて、一旦この駐車場から車を出し、近くの電子マネーが使えるところに移す、というものです。余計な出費となりますがやむを得ないと考えてまず周辺の駐車場を見て回ったのですが、開演までの限られた時間で歩いて見て回るのは限界があり、2~3カ所見ただけに終わりました。すべて電子マネーNO!です、、、。

 

次は、3時間までは無料なのだからギリギリまで鑑賞して、間に合わなければ中途退場するという案で、結局こちらを採用したのですが、駐車場入場が16時過ぎでしたから、19時前には映画館を出ないと間に合いません。こうなってみると渋滞で到着が遅れたことが幸いしたのですが、それでも17時からの上映だと2時間弱しかなく、前々日のサザンのように3時間近くの熱演となれば盛り上がりのピークで退席ともなりかねません。まあベビメタはMCもありませんし、激しいダンスを伴うステージですから通常ライブの所要時間は70~80分程度なのですが、ツアー最終日で延びてしまうと、本来嬉しいはずがこの日に限っては困ったことになります。

 



最終的には18時半過ぎ90分余りで終演となりましたので、最後まで見届けることが出来たのですが、始まる前からバタバタ走り回って慌ただしく、鑑賞中も腕時計を気にしながら落ち着かないライブ鑑賞となってしまい、とてももったいない思いをしました。歳と共に忘れっぽくなっていることの自覚が必要です。

 

 

 

 

 

サザンオールスターズのライブビューイングに行って来ました。

 

サザンオールスターズ「LIVE TOUR 2025『THANK YOU SO MUCH!!』」の千秋楽となる東京ドーム公演のライブビューイングに行って来ました。

 

被災地である石川県を皮切りに全国13か所26公演の千秋楽となる東京ドーム公演の2日目を全国の映画館でライブビューイングとして公開したものですが、全国272館、589スクリーンで約15万人を動員し、リアルのライブと合わせると何と75万人にも及ぶ動員を果たしたのだそうです。

 

2024年の「ROCK IN JAPAN」では最後の夏フェスと言っていましたし、大規模なツアーももしかしたらこれが最後になるかも知れないなと考えて、リアルのライブにも申し込んでいたのですが、かすりもしませんでした。
締めくくりの東京ドームはどう考えても激戦になるでしょうから、さいたまアリーナと横浜アリーナを狙ったのですが見事全ての公演で玉砕していたのです。

 

今回のライブは5月29日、受付開始は直前の5月25日12時だったのですが、丁度その時は軍艦島ツアーで長崎に向かうANAの機上でしたから、久し振りの搭乗で慣れないANAの機内Wi−Fi設定に悪戦苦闘しました。何とか12時ちょっと過ぎに申込みは完了したのですが、機内Wi−Fiは通信速度が遅くて、かなりやきもきさせられ、無事チケットが確保出来た時は、夫婦で小さくガッツポーズでした。大抵の場合は抽選なのに、こんな時だけ先着順だったのです。

 

申し込んだのは千葉ニュータウンにあるイオンシネマで、18時半の開場に合わせて、夫婦それぞれ別々に向かいました。妻は実家の義父母宅から、私は自宅からだったのですが、17時にリモートでの商談が入っていましたので、早めに出発してイオンの駐車場にハイエースを停め、車内でやる積りだったのです。それを終えた後は、イオンのフードコートにあったリンガーハットの皿うどんを夕食として、18時に映画館で妻と落ち合いました。長崎ツアーで、ちゃんぽんは食べたのですが、その時皿うどんとどちらにするかかなり迷って、未練が残っていたのです。

 

 

ライブは遅れることも無くほぼ定刻に始まり、桑田佳祐氏の軽妙なMCを交えながら2時間半を超える熱演、場内は私たち夫婦と似通った年配の男女連れで満席でした。
とても69歳とは思えぬパワーですが、アルフィーは更に1年先輩で、「takamiy(タカミー)=高見沢俊彦」よりひとつ下、ということと石破さんよりは上、という事をしきりに強調していました。今年デビュー47周年ですが、50年までは頑張ろうかな?みたいなことも言って大歓声を受けていましたので、まだ生でライブを見るチャンスは残されていそうです。

 

ライブが終わったのが9時過ぎで、その時すでにイオンモールは営業終了してシャッターが閉ざされていましたので、映画館から駐車場に戻るのに一苦労しました。3階の駐車場にクルマを停め、イオンモールを抜けてイオンシネマに行くのが最短コースでしたので、妻も私もそうしたのですが、イオンモールに続く通路のシャッターが閉ざされてしまうと、一旦1階まで降りて外に出た後、更に駐車場の車路を延々と歩いて3階まで登らなくてはなりませんでした。私たちと同じように自分のクルマまで戻るのに四苦八苦している人たちが難民のようにゾロゾロ歩いていたのですが、階段がどこにあるのかの表示すらない(結局階段を発見できず車路を歩いて登ったのですが、、、)のは、小売り最大手のイオンとしては少々お粗末なんではないのかと文句を言いたい気分でした。

 

 

 

 

長崎ツアー2/2:市内観光後、軍艦島へ

 

長崎ツアー2日目のメインイベントは軍艦島上陸です。九州は既に梅雨入りしていたのですが、朝起きてすぐ外を見ても雨はなく風も穏やかでしたから、問題なく上陸できそうで一安心です。

 

軍艦島クルーズの出航は13時でしたから、朝食後まずは市内観光として、平和祈念公園、大浦天主堂、グラバー園と回りました。
平和祈念公園に来たのは、高校生の頃始めてのソロツーリングで九州を巡った時以来ですから、実に50数年振りという事になりますが、私の亡父は16歳の時にここ長崎で被爆していますので、その意味でも感慨深い場所です。長崎大学の前身である長崎高商に通っていて学徒動員で工場に勤務していて原爆に遭ったのですが、旧制中学4年修了で入学していたのが仇となったのです。まあそれが無ければ父の人生は全く違ったものとなり、私も恐らくこの世に存在していませんでしたから、それを考えると複雑な思いがします。ただ父にとっては思い出したくもない過去であったことは間違いなく、殆ど語ることはありませんでしたし、多分死ぬまで長崎には足を踏み入れてなかったと思います。

 

 

平和祈念公園の次は大浦天主堂とそれに隣接するグラバー園を見学しました。
大浦天主堂ではガイドの方から日本人宣教師養成のための神学校のことや、天主堂が建設された江戸時代末期、処刑される危険を冒してまでも信者であることを名乗り出たキリシタンのことを教えてもらいましたが、こういった知識があると無いとでは感動の深みが全く違いますね。私の好きな帚木蓬生の「守教」という小説を思い出しました。
グラバー園はかなりの高低差があるのですが登りはかなりの部分にエスカレーターが設置されているので助かりました。江の島の「エスカー」みたいですがここは無料です。

 

 

その後は軍艦島行きの船が出る長崎港ターミナルまで行き、各自夕食を食べた後乗船しました。思ったより大きな船でしたが完全に満席の状態で、軍艦島の知名度が高くなっていて、今の状態がいつまで保てるのかわからないのも知られていることがわかります。海外からの観光客も多かったですね。
かなりの高速で島まで約40分かかるのですが、細長い長崎湾を抜けて行く間も両岸の観光案内などをずっとしてくれますので飽きることはありませんでした。

 


上陸して見た軍艦島は、これまで各種映像で観て来たものと全く同じでしたが、滅びの美しさといったものが現物を見るとより実感として感じられ、今来て良かったなと思えました。
各所に崩落の危険が迫っていますので、上陸しても見学場所は島南部の岸壁沿いに限定され、3か所の見学広場で元住民の方などが案内人として説明をしてくれます。

 

 

再び船に乗って島を離れる前に、もう一度外から軍艦島を見られるように周囲を一周してくれるのですが、島の南側から写した下の写真が名前のいわれとなった戦艦土佐のイメージに一番近いでしょうか。
また島の一番高いところには端島神社の祠が残っているのもはっきり見えました。
3枚の写真の色調が全く違うのは、私のはXPERIAで妻のはiPhoneだからです。

 


長崎港に着いた後は再びバスに乗り、2時間弱かけて佐賀空港に向かいました。ANAの東京便だけが就航している小さな空港で、私たちが乗る便の乗客だけしか居ませんでしたから、構内も閑散とした雰囲気でした。
若干遅れて羽田には20時半過ぎに到着、帰宅したのは22時を回っていましたからさすがに疲れたのですが、思い出に残る旅となって夫婦ともに満足でした。

 

 

 



 

長崎ツアー1/2:祐徳稲荷神社(ゆうとくいなりじんじゃ:佐賀)と長崎夜景

 

妻と1泊2日の長崎ツアーに行って来ました。
今回もクラブツーリズムのツアーなのですが、軍艦島上陸見学ができるというのに惹かれて申し込んだものです。

 

AIによると、「軍艦島は、長崎港の沖に浮かぶ「端島」という小さな島の別名で、明治時代から昭和時代にかけて海底炭鉱によって栄え、日本初の鉄筋コンクリート造の高層集合住宅が建造されるなど、一時期は東京の9倍にものぼる人口密度を有していたのですが、1974年の閉山以降無人島となっています。
端島炭坑を含む「明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼、造船、石炭産業」がユネスコの世界文化遺産に登録されたことから注目を集めることとなりましたが、老朽化が進んでいて保全対策が一つの課題となっています。」との事で、軍艦島という別名は、船上から撮影した端島の姿が、長崎港で建造された戦艦「土佐」にそっくりだという事でつけられたのだそうです。
私は、北海道の糠平湖に残る旧国鉄士幌線のタウシュベツ川橋梁という、放置されて朽ちかけたコンクリートのアーチ橋を訪問したこともあり、こういった近代産業遺産的なものは結構好きなのです。

 

今回は1泊2日という短期間のツアーですから、軍艦島以外は本当に駆け足となりますが、それでも長崎周辺のちょっとした観光は付いているようでした。
日曜日の11時過ぎに羽田を出発するANAで長崎には15時に到着しました。そこからは何故か佐賀県に回って「祐徳稲荷神社」にお参りするコースとなっています。長崎空港は大村市にありますから、確かに祐徳稲荷まで行くのも長崎市に行くのも時間的にはそう変わらないみたいですが、翌日の復路は佐賀空港からの出発でしたから、その際に寄った方がずっと効率的ですし、それが時間的に無理なのなら、今回のコースに含まれていなかった出島などの長崎市内観光に回してもらった方がずっとうれしかったです。

 


短期間のツアーだったからか羽田からの添乗員はおらず、長崎空港で現地添乗員が出迎える形でツアーメンバー初集合となりました。
これまでは多くても20人弱という少人数のツアーばかりだったのですが、今回は40人強と大勢での団体行動となりました。ただ比較的高齢者が多かったからか皆さん時間厳守で、行程が遅れることもありませんでした。

 

祐徳稲荷神社は日本三大稲荷の一つとのことですが、私は今回初めて知りました。
再びAIに聞いて見ると、「日本三大稲荷は、伏見稲荷大社(京都府)、笠間稲荷神社(茨城県)、豊川稲荷(愛知県)または祐徳稲荷神社(佐賀県)とされるが、正式に決まっているわけではなく、地域や伝承によって異なる場合もある。」のだそうです。

 

 

三大稲荷神社に数えられるだけあって立派な神社でしたが、日曜日にも関わらず訪れる人は多くなく、近くで開催されていたフリーマーケットの方が人出は多かったです。
その後は長崎市内に向かいましたが、もうホテルに入ったらすぐに夕食というタイミングとなり、実質この日の観光は祐徳稲荷だけでした。このあたりから上で書いた不満が生じた訳です。
ホテルは長崎駅を見下ろす山上にあって眺望は抜群ですが、お世辞にも新しくて快適とは言い難く、夜景が美しかったことが印象に残る位でした。
まあ今回は翌日の軍艦島上陸がメインですから、多くは望みません。梅雨時期でしたので雨は覚悟していましたし、波が高ければ上陸は中止、出航すらできないこともあり得るとの事でしたから、それを心配していたのですが、この二日間雨は無さそうで、海も穏やかとの予報でしたから、それだけでも十分です。

 

 

 

 

 

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